文句言うのも待つのもいい、けど、最後は自分で満たす

2016.07.24 03:57|思ったこと・気づいたこと
20160723.jpeg

書きたいことを書き始めると
忘れると思うので(やっちゃうんだな〜)
お知らせを先にさせてください。

今期の日本(大阪)行きは9月末にしました。
10月からセッションをさせていただこうと思っています。
ご案内はこちらのページです。
あなたにお会いできますことを楽しみにしています〜〜♡

= = = = = = = =

ここ数日、セッションに使いたい新しい資料をまとめています。

セッションを重ねていくうちに
いろんなケースから沢山の気づきと学びがありました。
まだ経験が少ないと思うし、研究途中だと思うのだけど、
幼い頃の環境と体験の影響は大きいと感じています。

幼少期にどれだけ親に依存が出来ていたかが
人格形成に大きく影響を与えているなぁと。
特に母親との関係の影響が大きいと感じていて
なんらかの事情で母親の状況が厳しく
(苦労していた、精神的に不安定などがあったなど)
幼児期くらいまでに母親に充分依存していなかったような方は
依存することで得られるはずだった感覚(愛されているとか)や
自己価値や自己評価する能力などが
欠けやすくなる傾向があると感じました。

こういうケースは、もちろんインナーチャイルドも関わってくるし
そこに脳の影響や遺伝も関わってきたり
エネルギーコードや刷り込み、
身体的なこと(ストレス耐性などホルモンバランス)も
そして多くの場合、前世の影響もあります。
セッションではこういうところを調整していくのですが、
セルフ(ご自身)で書籍を読んだり
ネット検索したりブログ読んだりしてる方もいらっしゃると思います。
(この記事も読んでくださってありがとうございます〜)

気づきとかいろんなことも役に立つんだけど、
生活習慣を改善するだけでも変化があります。
特に
・睡眠
・太陽の光を浴びる
・食事
に関して。
めちゃ基本的なことだけど、かなり影響しています。
「悩んでるから寝られへんねん!」とかあるとは思うんだけど
ちょっと工夫してみるんですね。
寝る前に灯りをじょじょに落としていく、とか。
食事をちゃんと摂る、とか。
(適当に済ませない、お気に入りの食器を買う・使う、など)

自分で自分を大切に扱い、
自分で自分のケアをするんですね。

ー ー ー ー ー ー ー

話は変わり、
この間観た、親子のドキュメンタリー番組についてなのですが、
母親が子に向かって

「あんた、そんなこと出来ると思ってるの?
 できるわけないじゃん」

と言い放ったり、否定的な発言がありました。
娘(といっても40代くらい)はアワアワとして
インタビューでカメラの前では

「ママには応援してもらいたいのに
 いつも無理だとか滑稽だとか言うの!」

と涙しているのです。違う場面では母親に面と向かって

「なんでママは『応援するわ』という言葉が言えないの?!」

と言うのですが、母は無言。
後になってカメラマンが母親ひとりの時に
「なぜ娘さんに無理だなどと言ったのですか?」と
質問すると

「あの子が後で傷つかないためだよ。
 何度も試しては失敗してるんだよ?
 また挑戦したら、また傷ついてしまうよ…」と細い声で言ってました。

これを観て、わたしはこの母親の愛の形を感じました。
でもね、
娘からしたら《娘の想像する愛=応援》ではないので、
母親の愛を感じないのです。
でも、母親は《傷つかないように》という母親なりの愛の形があったんですね。

お互いの愛の形が違うから
お互いで認識が出来ていない。
愛が無かったわけでなくて。

でもやっぱり、認識出来ないと、無いも同然なんですよね。。

そこは分かる。
分かるんだけどね、
他人から《私が想像する愛をちょうだい》と待っているだけだと
受動的な生き方であり、他人軸の生き方になってるんですね。
そうなると、いつまで経っても状況が変わらないことが多いです。
他人は変えられないから。

なので、現状を変えたい、とか、前向いて生きたい、進みたいのなら
《自分で自分を満たしていく》ことかなぁと。

ママから愛がもらえないと文句言うのもいいし、
待ってるのもいいと思う。
そうすることで、自分が溜め込んだことに気づくから。
で、そうしてて途中であれ?と気がつくと思うんですね。
ただこうしてるだけでは最終的な解決にはなってないって。

何をどうしてても、最後には、
他人がくれるのを待ってるんじゃなく、
自分で自分にあげるんですね。
自分で自分をケアするのです。

そもそものところ、
他人からもらえてるのを待っている「事柄」というのは
自分で自分にしてあげられていないこと、と感じます。

他人から愛されたい(愛してもらえるのを待ってる)のは
充分に自分を愛しきっていないから。

他人から認められたい(認めてもらえるのを待ってる)のは
自分を自分のことをちゃんと認めていないから。


でね、ひとりで頑張るのもいいけど、
辛いときには、誰かに助けを求めることを
覚えていて欲しいなぁと思います。

ドツボにはまっちゃうと
なんだか孤独感満載になって
ますます辛くなっちゃったりとか
よく分からん〜〜とグルグルしたり。

あの、あなたはひとりじゃなくて
助けてくれる人は絶対どこかにいますから。
ひとりで頑張るのもいいけど、
よく分からなくなることだって普通にあるんですね。
だから、辛いときや苦しいときは
勇気が要るかも、だけど、
誰かにヘルプ要請してくださいね。

あなたがしっくりくる方と出会っていますよう☆

「Limits Exist Only In The Mind」

2016.07.18 04:28|思ったこと・気づいたこと
Facebookで見かけた動画を
ご紹介させてくださいね。



見れない方へ:
紙の上に放たれた一匹の蟻の周りを
ペンで円(完全に閉じた丸)を描くと
蟻はその円から外には出なくなっちゃう…という動画です


タイトルが
Limits Exist Only In The Mind
(限界はマインドにだけ存在する)」
ということで、
まるで蟻が自分のマインドで限界を作っているかのようにも見え
その意味でも、実際に視覚化として見せてもらえて
わたしにとっては「あるある、こういうこと!」と
自分の中にストンと落ちてきたのですが、

その実、円が描かれたインクに含まれている化学物質が
蟻のフェロモン・トレイルをかき消してしまい
(蟻の移動習性のひとつとして、フェロモンの軌跡をたどって移動します)
身動きがとれないから、という解説があります。

で、この後者での動けないのが、興味深かったのです。

蟻はオロオロと円の中を右往左往していて
パニックになっているようにも見えました。
でも、わたしは当事者(蟻)でなく、外から見てるんですよね。
そして視点は、鳥瞰図のように上空から見てる状態です。
だから、円の外が見えていて、円の外は安全だし
自由だし、なにも怖いことはないと知っていて
「落ち着けばいいのになー」とか
「ほら!線を越えるねん!帰れるで!」など
呑気にいろんなことを思うのだけど、
でも蟻は地面を這っていて、ただただ右往左往と。。。

いやーー、視点を変える、
まるで他人事のように物事を見てみるというのは興味深いなぁ、と。
そして、当事者の視点だと視野が狭くなりがちだと体感しました。
あとね、ちょっとの勇気が(蟻にとって有害物質を越えることが「ちょっと」の勇気か分かりませんが)
大きな変容をもたらしてくれることへの大切さ。

このまま円の中で暮らしててもいいのだけど(比喩です)
もし、居心地が悪かったり
出たいのに出られないとなっているのであれば、
勇気を出して「壁」を超える必要もあるんだなーと。
時には痛みや辛さがあるかもしれないけど
それも一時的なことで、そこを越えたらほんと違うもの。

必要なのは、数秒の勇気と覚悟だけ。
それだけで、大きな変容に近づけます。

30秒の動画。
たかが30秒、されど30秒。
いろんな気づきと体感がありました。
蟻さん、ありがとう〜
(そして、インクの有害、ごめんなさい)

日常が「発表会」になってませんか?

2016.07.16 03:48|思ったこと・気づいたこと
20160715.jpeg

「すべてはプロセスである」と
わたしはよく言ってるような気がします(どうかしら?!)
わたしにとって、人生そのものがプロセス(過程)と感じていて
何を選択したとしても、何が起こったとしても
それはただのプロセスであり、そこにわたしが意味付けをして
楽しんでいるなーと感じているんですね。

で、あえて意味付けをすると(!)
人生って「魂の練習場」だなぁとも思います。

以前のわたしは違っていて、
人生の日々は発表会だと思ってました。
向上心が強かったというのも要因のひとつですが
「わたしは成長してるよ!ここまで出来るよ!」と
どれだけ成長しているのかを見せるというような感じで
日々が発表会状態でした。
「発表会」ですから、自分をよく見せようとしちゃうんですね。
なので、上手くいかなかったり失敗しそうになったら
取り繕うとしたり、ごまかそうとしたり。
で、ある時、あれ?と思ったんですよ。
なんか違う、と。

で、ここでふと、小学校の学芸会を思い出しました。
学芸会の発表がある日までは、練習するじゃない?
だから、間違えば間違えるほど、
上手くいかなければいかないほど、
先生に指摘されたり、教えてもらったり
自分で研究したりして(好きだったものだから!)。
で、自分がどんどん研ぎ澄まされていってね。
間違えて失敗して→教えてもらって→成長。

これ思い出して、ふんふんと思ってたらハッとした。
日々が発表会状態だとさ、、、
毎日どう先生に自分を上手く見せようか、という状態ですやん!
間違えそうならごまかしてるだけだし!
え?いつ練習して、磨かれてるんだ??と呆然としました。

そこに気がついてからね、
発表会状態を止めようと思いました。
毎日を「練習場」とし、
出来なかったり、失敗したり、
なんや違うことしてる…と感じても
そのまま先生に見てもらう(誰かに教えを請うなど)をしました。

正直言うと、最初は勇気が要りました。
今までずっと取り繕ってきてたからね。
でも最初だけだし。
でね、間違えば間違うほど磨かれていく、と気づきました。
間違えたら、さぁどうやったらいいんだろう、と
よりよい方法を探そうとするしね。
先生もいろんなこと教えてくれるし。

あとね、間違う自分にもOKが出せるようになりました。

以前のわたしは自分が間違うことを赦せなくて、
間違う自分をダメとしたり、責めたりしたこともありました。
こうなってると、間違う他人も完全には許容できていないです。
間違う自分にOKを出せることで、
間違う自分も赦せて、他人も赦せて。
自分に優しくなれるし、人にも優しくなれるんだと思う。

ー ー ー ー ー ー

話は変わるのですが、

人それぞれ役目があると思うんですね。
人それぞれが表現する内容は違っていて、
相手の表現することが
自分の表現することと信念や想いが違うこともあると思う。
でもそれも、それぞれの役割があるから
違うのが当たり前なんだと思う。

人生日々「練習場」なので
自分も相手も磨かれている途中なわけで。
だから
明日の自分が、相手と同じこと言うかもしれないし
逆に、相手がまた全然違うことを言い出すかもしれない。
そこも赦してOKを出すんだな〜、と。
そもそものところ、わたしたちは変化し続けていて
同じ状態ではいられないのですから。


ついでなので書いちゃうのですが
前記事の非二元論を引っ張り出してのお話なのですが、
あれね、本当に非二元論を追求した方にしてみたら、
わたしは「間違ってる」ことを言ってると思います〜。
分かってるんだけどね、
わたしが表現したいことは、ああいうことだったので
アップしました。

非二元論を追求した方にとっては
「非二元論を追求すること」が目的なのかな、と思うのね。
(追求し、諸々からの解放が目的だとも思うのですが)
でもわたしは「いかに魂と共鳴出来るのか」が目的なので
本来の非二元からズレて、独自の理解になったとしても、
それでいいと思っています。
今、実際に、魂と共鳴出来ることに役に立っているのですから。
(非二元論のご本家のみなさま、ごめんなさいね)

わたしの表現したいこと、と、
非二元論を追求した方の表現したいことが、違うんですね。
そして、
わたしの役目は、本来の非二元論を広めることじゃない、
ただそれだけのことだと思う。

でもね、
非二元論を広めることがお役目の方のおかげで
 ↓
わたしは非二元論を知ることができ
 ↓
本来とはズレた理解を持ったとしても
 ↓
それが今のわたしの活動(表現)/役目に役立っている、というわけなのです。

ね?それぞれの役目が違うおかげで
上手いこと成り立ってるんですよ。

それで、わたしのことだから
明日になったら気が変わって、非二元を追求し始めるかも、なんですね。
そんな感じで選択がコロコロ変更してもいいと思うし
そう変化していくのが人間だと思います。

間違ったっていいんですね。
というか、間違うことが普通だと思うなー
人生は練習場なので、
そうやって間違っていくことで
その時々の先生がいろんなことを指摘したり教えてくれて
磨かれていくのだと思います。

日常が「発表会」になってる人、いませんか?
よかったら、一度、発表会は中断して
練習場にしてみてくださいね☆
日々がますます楽しくなることと思います。

【続】個であること、全体であること

2016.07.14 04:06|思ったこと・気づいたこと
20160713.jpeg

前回の記事「個人の視点と全体からの視点」をアップして
友人と話してたらもう少しお話したくなったので
今のわたしが思うところを書きますね。

話はちょっと飛ぶのですが
ノン・デュアリティ(非二元)という捉え方があります。
正直なところ、わたしはまだちゃんとつかめていないのですが、
ここでのメッセージは
「私はいない、全体しかない。起きてることしかなく、良いも悪いもない」
と、わたしは捉えていて、
究極のところほんとそうだな〜と思っています。
でも、この捉え方である「全体しかない」というのは
合う人と合わない人、そして
合う人であっても、場面によっては合わないことがあるのでは?と
いろんな方と会っていくうちに思うようになりました。

まず、「私はいない」という感覚なのですが
これは、私であること:「個」での存在で在ったからこそ
「私はいない」と到達する領域なのでは、と感じました。
そもそものところで、相対する対象がないと
「私はいない」ということは知れないから。
だから、個であることをとことん感じる必要があるのでは、と。

で、この「個であること」ですが、
いつも他人に合わせたり
自分で決められなかったり
誰かのために生きてきたなど
他人軸で生きていらした方や
自我形成ができてない方、
あと、意識がいつも外になる方も
個(自分)がはっきりと掴めていない傾向にあると感じています。

なのに「全体しかない」という捉え方を導入すると
最初は受け入れやすかったりして(そもそも『自分』が薄いのですから)
思い込みが解放されたりもするのですが、
ふいに分からなくなったり、混乱してしまったりして。
でも「物事を解放できそうだから」や
「全体の方が正しいから」という基準で
全体に重心を置くことを選択してしまい
生き辛くなったり、ややこしくなったり。
こういう場合は、まずは、個(自分)としてのアプローチが
合うのではと感じました。
実際に、全体に偏っていた方で、
個としての存在を感じられて、解決したことがあったり
「こんな楽しいことあるのか!」と
人生がカラフルになったと感じられた方もいらっしゃいます。

反対に、ずっと「個(自分)」で生きていらした方は
「全体しかない」という捉え方は
大きな解放をもたらすこともあると感じました。
あと、禅や悟りに通じていた方も受け入れやすく
気づきや解放があると思います。
でも、ここで「全体しかない」ということに固執してしまうと
自分と向き合う機会を逃してしまうこともあると感じました。

自分の中にある思い込みや信念体系は
今まで生きてきた中で積み重ねてきたことであり
それは主に個としての存在からの経験であったので
「自分」を掘り下げるから見えてくることもあるんですね。
だから「全体しかない」というアプローチでは
ものすごく解放の道のりが長くなる場合があると感じます。
あと、「全体しかない(全体があるだけ)」と
自分のことでない全体の苦労などを背負ったりして
自分を辛くしたりややこしくしちゃったりするケースも。
(これもご自身の選択なので、それでもいいのですが)

ということで、
究極な話、いつかは全体に還っていくのだろうけど、
「今ここ」で生きている分には、
どちらかだけに偏るのでなく
どちらも選択の中に入れていいんじゃないかな、と。
全体が正しいとか、個人であるのが間違っているとか
そういうことではないとわたしは感じてます。
選択の違い、どう在るかの違い、なのだと思う。
で、この選択は日々の瞬間瞬間に変わるものだと思います。

例えば、テーマパークに行って、
「ここは作られた世界でライフである」という感覚が
自分の中で多くを占めたまま全体的の美しさを堪能して滞在するか
「ライフの一面であり《わたし》もいる」という
全体の美しさを堪能しつつ個の感覚も楽しんで滞在するか。
→テーマパーク内の雰囲気を「全体的」で味わいつつ
ジェットコースター乗って「自分」で楽しむ、とかね。

好みなどの違いであって、どちらが良いとか悪いという論点でなく、
どっちが合うとか楽しめるか、などの選択の違いかなぁと。

ー ー ー ー ー ー

わたしがここでお話したかったことは
「人生において、一つだけの道具(個or全体)にこだわるのでなく
 適した道具を適した場面で使ったらラクだし面白かったり
 同時に二つとも持てるよ」
ということをお伝えしたかったのです。
「個で在りながら全体で在る」ということで
どちらでも在ることで、楽しさや美しさも増えるとわたしは感じています。

人それぞれ合うことが違っているし
役目(表現すること)があると感じています。
人によっては「全体しかない」と表現するのが役目で
そうしてくださることで他の人(わたし)も気づきや恩恵を受けています。
で、今のわたしは「個で在りながら同時に全体でも在ること」を
表現するのが楽しいと感じています。
そして、わたしのことだから
明日になったら違うこと言ってるかも、なのです(!)

自分が感じることを人それぞれが表現しているだけ、
ただそれだけであり、
結局のところ、すべてにおいて良いも悪いもなく
ただ「ある」だけだと感じています。

でね、《どう在ってもいい》んですね。
すべてはプロセスであり、どれを選択しても
なんど選択を変更しても、それでOKなのです〜〜

個人の視点と全体からの視点と

2016.07.11 03:59|思ったこと・気づいたこと
20160710.jpeg

ありがとうございます〜!
Facebookやメールで
沢山のお誕生日メッセージをいただきました。
歌ってくださった動画もあったりしてどれも暖かくて、最高に幸せ♡
お誕生日は、どなたの方の日でも
幸せに包まれている感じがして大好きなのですが
自分がメッセージをいただく側も
ほんと幸せでほくほくした時間を過ごさせていただきました。
みなさま、いつもほんとありがとう♡わたしは幸せです。

さて、誕生日はオランダに居るはずが
イタリアの自宅で過ごしている…と書いた前記事の
続きでもあるようなお話です。

わたしは家に居るのも好きなので、こんなこともあるかと
楽しくおうちでバカンス・バースデーを過ごしたのですが
ボブは「(わたしへの)プレゼントだったのに残念」ということと
「偶然にドクターに会った」というのが気になるらしく
「なんとしてもこの時期にオランダに行くなってことだねぇ」と何度か言ってました。
というのも、少し前から彼に腰痛が出てたんですね。
それをなんとかほぼ治め、
さぁオランダ行く@ちょっと腰気になるけど、となってたとこに
ドクターに偶然会って、薬を処方してもらって、飲んだら
結局はオランダ行けなくなった、と。

物事に意味を見出そうとすると幾通りもできるので、
意味付けしたければ、どんな風にも意味付けできるし
もしくは、物事はただ起こっているだけ、と
起こったことは表現のひとつ(ライフの一面)として
見ることも出来ると思うんですね。

同じ出来事が起こったとしても
受け取る人が10人いたら、
受け取り方も10通りあるんだ、とまたしても体感し
ボブの意味付けとわたしのただ起こったんだという
受け取り方の違いが興味深かったです。

以前のわたしは何事にも意味を見出そうとしていました。
なぜこうなったのか、なぜわたしにこんなことが巡ってくるのか、と。
「偶然は有り得ない!こうなるはずだったんだ」とか。
もちろん、こういう見方もあると思います。

でも、気がついたのが
「わたしだけが」そう見ているだけであり、
他人からしたら、違うんですよね。
(同じように見ていることもありますが)
で、自分にとっては重要なことでも
他人からしてみたらどうでもいいことだったり。

ということは、自分が価値を付けたり
問題を見出したりしてるんだなーと。
「なんだか独り相撲みたい…?!可笑しい〜〜」
と気がついたときに、
いくつかの思い込みなどは消滅したのですが
いくつかは残っている場合があったんですね。
これは、自分の中を掘り下げていかないと解放できませんでした。

で、何が言いたいのかというと。

「わたしだけがそう見てる」と気がついた時点で
個人の視点でなく、全体的なひいた視点になれ
いくつかの思い込み(刷り込みなど)は解放したのですが、
でも、
自分の中にある深いことや古い癖を手放すには
「わたしがそう見てる」という個人の視点が必要でした。

全体的な視点と個人的な視点。
まったくの逆な感じもしないではないかも…ですが
どっちも必要です。

あ。全体の感覚であること、とは
個人の感覚を消すことではないとわたしは思っています。

個人の感覚を持ちつつ、全体の感覚も持てるのね。

逆に言うと、個人の感覚があるからこそ
全体の感覚を感じるというか。

個人を追求することと
全体を追求することは
わたしはパラドックスだとは思っておらず
どちらとも同じことだと思っています。
結局同じところに向かっていると感じているから。

さて、
個人と全体の感覚に同時に在る…って
どうしますのん?よう掴めませんがな、という場合。
わたしが感じたとこですが、
カギになることがあるんですね。

ちょっとスペースを空けるので
よかったら、あなたもちょっと考えて(感じて)みてください☆

「個人」と「全体」の感覚に同時に在るときのカギ、とは。






























そう!
あなたがそう思ったのなら
それがきっとカギになるのだと思います。
試してみてくださいね。

でね、わたしの場合は
「今ここ」の意識(感覚)かなと感じています。

「今ここ」に在るという感覚が融合剤となって
「個人」と「全体」の両方に在る、と。

個人と全体の両方に在る、という感覚、
例えでいうと、イメージ的には
「波」でありながら「海」であるという感覚です。

波は、海で寄せては打って海へと溶け
そしてまた、寄せては打ち、、を繰り返してますね。

波と海の境界線は何かな?

波は、海から盛り上がった状態で
海の一部だと思うんですね。

わたしたちも同じく、
「個(波)」としての存在でありますが
「全体(海/大いなるひとつ)」の一部であると思います。
そしてはそれは、同時に在ることもできますね。
「今ここ」に海・波が在るように、ね。

よかったら、今そこで、目をつぶり、姿勢を整え
数回深呼吸をして、波を自分の中に感じてみてください。
波は寄せては打ち、海に還って行きます。。。



ね?わたしたちは
「個人」でありながら「全体」でもあると感じていただけたかな?

「個人」という感覚を持ちつつ
「全体」の感覚をも同時に持ち続けることが、
自分であること、そして、
生きていく醍醐味でもあるのではとわたしは思います。

青空が広がる暑い夏!
どうぞ個でも全体でも両方で
醍醐味を味わってくださいませ〜〜

Happy Summer!

意識の在るところ

2016.07.07 03:47|思ったこと・気づいたこと
20160706.jpeg

オランダに居るはず、だったのですが
イタリアの自宅におります、こんにちは。

オランダ出発の前日の朝、偶然に
ボブのかかりつけの医師にばったり会ったんですよ。
で、そこでボブがここしばらく抜けない変な腰痛について
さらっと話したんですね。
すると医師はすぐに的確に症状や状況を掴んでくれて
今まで摂取したことない薬を処方してくださいました。

ドクターは「眠気がくるかもしれないからね」と言ってたけど
その薬をボブが飲んだら寝るのなんのって。
何度かうとうとと目を開けて話しかけてくるのですが
どうしても眠いのとだるいのと
起き上がろうとしたらクラクラし、足元がおぼつかない。
で、眠くてしょうがなくて、また寝る、ねる、ねむる。。。
朝に薬の摂取をして時刻は夕方も過ぎた頃、
ようやくはっきり目が覚めて
「眠気はそろそろ薄くなってきたかも」と
彼は起き上がったんですけどね、ふらふらしてて
激しい嘔吐あり、で血圧も測ってみたら
今までにないくらい急上昇しちゃってて。

薬が身体に合わなかったなーと思い
説明書を開いてみたら、副作用の一覧オンパレードで
その中に嘔吐や高血圧、ふらつき、足元のおぼつかなさとかも
すべて入ってました。

薬の副作用とはわかったのですが、
嘔吐が激しくて、何を飲んでもすぐ吐いちゃうんですね。
脱水状態になるんちゃうかと思ったのですが、
意識ははっきりしてるし、動けてるし、
一晩くらいの脱水状態だとボブの体格からして大丈夫かと思い
(*個人の判断です。)
取り敢えずシャワー浴びてもらって
また横になってもらったら、、即、爆睡。

すごいなーと思ったのが、彼のオランダへ行く気力。
この時点でもまだオランダへ行く気満々でした。
楽しみにしてたから、というのと
わたしの誕生日(プレゼントということで)もあったのですが
「とりあえず明日の朝起きてから決めよう」と言って
朝を迎えたんですけどね。
一応元気だけど、やっぱり身体は弱ってて。
「やっぱり無理だわ、、」となり、延期しました。
(おかげさまでボブの状態は良くなってます〜)

さて、ボブが薬の影響下で寝てる顔を見てて感じたことがありました。
寝てるときって、意識はここに無いなーと。
ボブの身体はここに「ある」のに、意識はここになくて、
なんだかボブもここに「いない」感じがしなくもないような。

そもそも「寝る」という行為が
「うたた寝」
「昼寝」
「就寝(夜)」
などに分けられる、睡眠欲からくる自然な眠りと
「薬の影響下」の眠りがあると思うのですが、
これらの眠りそれぞれで、意識があるところが
違う感じがします。

よかったらご家族や親しい人の寝ているところを
観察してみてください。
ただ寝てるだけのようだけどね、同じ自然な睡眠でも
「うたた寝」
「昼寝」
「就寝(夜)」
だと、意識があるところの距離が違う感じがします。
うたた寝が一番身体に近いところに意識があり

「うたた寝」>「昼寝」>「就寝(夜)」

で、薬の影響下では、意識はもっと遠くなって
「うたた寝」>「昼寝」>「就寝(夜)」>「薬での睡眠」

という感じ。
ということは、眠りの深さで変わってくるのかな?
じゃあ、脳波の周波数が意識の位置に関係しているのかしら?と
想像してみたりもするのですが、
覚醒時のβ(ベータ)波状態であっても
意識があっちこっち行ったりしてるし、
リラックスしてるα(アルファ)波状態でも
意識は今ここだけでなく、ぼーーっとどっかいったりするもんね。

なんだか取り留めのない話になってしまったのですが、
普段のうたた寝でみかけるボブの意識状態と
薬の影響下で寝ているボブの意識状態での違いは
あまりにも顕著で、薬の影響下では
なんだかとてもアーティフィシャルな感じのような
パラレルとの平行スリップな感じもありで
とてもとても意識が遠く深い位置な感じがありました。

そんな彼の意識状態を見て(感じて)いたら
人間という生物が「生きている状態に必要な材料」というのが
とても興味深く感じられてね。
人間って、心臓が打ってて血液が全身を巡り酸素を運ぶだけ、
「身体」だけが動いてるだけでは生きていけないんだなぁ、と。
「意識」も身体になくてはいけなくて、
意識が身体にあるためには、「魂」も身体になくてはいけない。

…と、こんなことを考えていたら
ふと祖母が亡くなったときを思い出しました。

彼女の魂が抜けた身体はほんと「肉体」という感じで、
ただの物質だった(とわたしは感じた)んですね。
血液が身体を駆け巡っている状態、
エネルギーが身体を包んでいる状態、
魂が身体にある状態というのは
ここまでも人間を「生きている」としてくれているのか、、と。

身体は目に見える、触れられるので分かりやすいのですが
目に見えないエネルギーや魂・意識も
同じぐらい大切なんだと、体感しました。
そして、意識の状態も、身体の状態と同様に
どうあるのかが大切なんだなーと。

「人間」という生き物が作られている
材料は、ほんと興味深いです。

頼ることとやりすぎる女性と騎士的実力発揮の場がない男性と

2016.07.03 03:53|思ったこと・気づいたこと
2016070101.jpeg

まだ北伊の方では雨が降ったりしてるみたいだけど夏ですーー!
それにつれて、ドラッグストアのショーウィンドウでは
暑さからの倦怠感対策として
マグネシウムとカリウムが含まれたサプリの
宣伝も見かけるようになりました。
まさしく夏だな〜という感じがします。

マグネシウムとカリウムもいいですが、
わたしが夏にかかさない飲み物は、
水に有機リンゴ酢を入れた物。

ガラスの500mlのボトルに
有機リンゴ酢を蓋(リンゴ酢の蓋)一杯分
(要するに適当です。多分小さじ一杯くらいかな)
入れ、日中飲んでいます。

外出から帰ってきて、疲れを感じるようであれば
酢をもうちょい多めに。
ハチミツを入れたりすることもあり
サワーっぽい感じがして美味しいです。
初めて、とか、お酢がちょっと苦手という方は
ハチミツを入れて試してみてくださいませね。
わたしにとっては疲労回復の助けになっている感じがしています。

…と、「疲労回復」とか書いてますが、
シャンポルックから帰ってきた後の先月。
熱が引いた後も体調が悪いわけではないのですが、
倦怠感が完全に抜けなくて、動くと
気がついたらスローな動作になってました。
ボブにも「回復90%だね」と言われ続けてて
実際わたしもそんな感覚があり。

そんなある日。
わたしの側でボブが血圧を測ってたので
「わたしにも測らせて〜」となんとなく測ってみたら
77/55mmHgでした。
最大血圧が、77mmHgって!!
画面見たときに一瞬理解出来ず、呆然としてしまいました。

もうね、ビックリしたけど、この時やっと分かった。
抜けない倦怠感は、血圧低いからやんかーー!

セルフヒーリングしてみたら、ホルモンバランスの崩れもあり
その調整をしたら、結構スッキリしたんですけどね、
いや、まだ改善しようぜ、自分!運動不足あるやん!と
ちょっとずつまた始めたり
(始めた直後はゼーゼー言うてたよ、、)
塩分摂取を高めたり
(わたし、食事は薄味好きで、調理では塩はほぼ使っておらず)
生活改善も始めました。

おかげさまで今は落ち着いて元気にしています。

さて、こんな変な倦怠感があった最中。
いつもはしていたことが
なかなかリズムよくできず、
ボブにしてもらってました。
そして、ボブと一緒に買い物に行って、
荷物を持ってもらったときに
ハッとしてね。

ああ、わたし、無意識で
「ちょっとの我慢」
「ちょっとの無理」を
まだ沢山してたな〜〜と。

そしてそこから
「人に頼ること」
「自分が出来ることを人にお願いすること」
「男性に頼ること」
「男性が女性を守ること」
について、いろんなことが見えました。

ー ー ー ー ー

まず「ちょっとの我慢と無理」なのですが、
身体的にはしんどいのですが
「ちょっと無理」すると、家事はできちゃうんですね。
なので「ちょっと我慢」して、してみたり…とか。
でもそれって「本当にわたしがしたいことなのか?」というと
ほとんどの場合、したくないわけですよ。
でも、思考が「しなければならない」と思い込んでる。
じゃあなぜ思い込んでいるのか、と掘り下げると
世代的に受け継がれてたプログラム(母方・父方両方)が関係していて
「それ(ちょっとの無理をするの)は当たり前」
という思い込みがありました。あれれ、、、

「妻がちょっと無理/我慢するのは当たり前」
「『ちょっと無理したら出来る』は、『できる』ってことでしょ?」
「『できる』のに、わたしはしないの?」

となって、勝手に罪悪感も感じたりして!
ああ、そうなってたんだなーと気がついた後は

「『できる』のに、しないの?わたし??」
「しない。だって『したいこと』は、身体を休めることだから」

と自問自答し
【本当にしたいことは何なのか】を明確に掴むと
動きやすいと今回しみじみ感じました。

今までは
「したくないから、しない」
という掴み方だったのですが、これだとちょっと宙ぶらりんだったかな、と。

したくない(しない)というポジション、にあることを
したい(する)こと、に置き換えたのです。
こういうことで、動きやすいと感じたと同時に
次のステップへと動いたという感じもありました。

でね、
「人に頼ること」
「自分が出来ることを人にお願いすること」

これね、頑張り屋さん、自立心旺盛、完璧主義、
甘えるのが苦手などをお持ちの方は
ザワっとくるかもしれないかな、と(どう?!)。
特にね「自分が出来ることを人にお願いする」。
ちょっと声に出して言ってみてくださいよ、、、

ひぃ〜〜〜!!悶えません?!
わたし、悶えたよ。ゾワゾワした。
「自分で出来るのに人にお願いするなんて!どないよ!!」ってね。
でもね、あえてそれをしたことで
いろんなことが見えました。

一番大きかったのは、今まで
「自分が出来ないことでないと、人には頼っていなかった」
という点でした。
人に頼るということをちゃんと分かっていなかったみたい。

今までね、頼るということは
「自分が出来ないこと、もしくは何らかの要因(時間が無いなど)で
 自分の手に負えそうにない場合に人に頼る」
と思い込んでいたようです。
自分が出来ることでも人に頼る、という選択が
今までなかったんですね。
これは、
世代的に受け継がれてたプログラム(父方・母方両方)
自立心旺盛、責任感、罪悪感などが関与していたのですが、
今回ここに気がついたので、手放し
「自分が出来ることも人に頼っていい」と自分を赦し
「自分が出来ることも人に頼る」と選択肢に入れました!
なんかね、ラクに軽くなった感じがします。
(変な責任感とか手放せたからだと思う)

そして
「人に頼るということは、その人を信頼していること」
「頼ることは、豊かさのシェアでもあること」
とも気づきました。

頼ることの豊かさ、ですが
人から頼られる、ということは
嬉しい面もあると感じています。
そこに豊かさをわたしは感じるのですが、かつ、
自分の可能性を広げてくれるときもあるんですね。
頼られる(頼まれる)ことによって、
今までしてみなかったことをするような必然にせまられ
「あ、私はこんなことも出来るんだ!」とか。
他には、仕事に関してだと、
自分が出来ることを人に頼り(人に譲り)
その収入は、その方へ、
そして自分は次のステップの仕事へ取り組む…と
相手も自分も豊かさが巡っているんですね。
ああ、頼るということは豊かさにも繋がっているんだ、と
やっと「人に頼る」ということが腑に落ちた感じがします。

「男性に頼ること」
「男性が女性を守ること」
に関してですが
今回、ボブを頼りにしてかなり助けてもらってね、
気がついたんですよ。
わたし、今まで過剰にボブを守ろうとしてたとこあるなぁと。
例えば、買い物での荷物持ち。
ボブは腰痛持ちなので、重たい物は持たないようにしてるんですね。
なので、買い物するときはいつもわたしが持つようにしていたのですが
最近はずっとボブが持ってくれてて
「あ、こんなに荷物を持てる人なんだ」と気がついた。
しかも家に帰ってからも腰痛は出ていないし。
わたしが過剰に守っていたものだから
ボブの本来の騎士的要素に気付けていなかった、
しかも彼の活躍の場を奪っていたなと
今回、申し訳なく思っちゃいました(ほんとごめん)。

女性性でも守りの要素はあると思うのですが、
女性性の「守る」は、ケア(care)的なお世話という感じがし
男性性の「守る」は、ガード(guard)的な護衛という感じがします。
人間という生き物において
男性は女性を守るという要素をお持ちなのかな、と。

なのにね、女性がケアが行きすぎて「ガード」になっちゃって、しかも
元々の性質が、頑張り屋さんで自立心旺盛で責任感が強い女子だと
なんかもう男性性優位な女子が出来上がって、、
…はい、わたしでした。

こんな女子相手にしてると、男性側も実力発揮の場がないなーと思った。

ここまで気がつくと、他のいろんなことも納得いくことがあってね、
機会があれば書きたいのですが、思ったのが、
「うちの旦那は頼りない(と思ってる)」
「彼が守ってくれなくて、逆に私が守ってあげてる感じする」
「夫がしっかりしてくれなくて、私が全てをカバーしてる」
など、こんな場合は、他の要因もあるとは思いますが
女性側が「ケアしすぎて(やりすぎて)」
男性側としては能力開発・鍛錬の機会
そして実力発揮の場がなくなってるんじゃないかなぁ、と。

今回、荷物を持ってくれてるボブを見ながら思ってました。

もちろん、男性も守られる存在であると思います。
男性は、女性とは違う点で脆いところがありますものね。
で、そこでの女性側からの守りとはケアであり、
剣と盾を持ってのガードな守りじゃないのだろうな、と。

女性はもっとどーんと何もせずに守ってもらったらいいんだろうなーー
と、今まで「やりすぎてた」わたしは思ったのでした!

ー ー ー ー ー

なんだか今日もつらつらと思いつくまま書いていると
有機リンゴ酢の話から始まって、
人に頼ることやそこからの豊かさ、
男性と女性と守りの話になってますが!
自分でも思いつかなかったとこに着地してて驚きつつ
お付き合いくださってありがとうございます♡と
ここまで読んでくださった方に感謝の気持ちでいっぱいです。
(ありがとう〜〜〜)

さて。来週からしばらくオランダへ行ってきます。
ふふふ、オランダには数ヶ月住んでいた時期もあり大好きなのです。
イタリアと日本の半々の生活をしていなかったら
イタリアとオランダに住んでたんじゃないか、、というくらい
一時本気で住む場所探してたくらいですから。
ああ、楽しみ!行ってきます。

どうぞみなさまも楽しい7月を☆
プロフィール

ともこ

Author:ともこ
お会いできたみなさま、
ありがとうございました。
また2017年10月に大阪に行きます。
あなたにお会いできますことを
楽しみにしています〜!

【ワークショップのお知らせ】
ブレてもまたバランスを
取り戻せばいい!
自分で自分を整えるコツをお伝えする
1Dayワークショップです。
詳しくはこちらをご参照ください

***************
日本とイタリアを行ったり来たり。
筋肉反射を使ってセッションするインテグレート・ヒーリング(Integrated Healing)をしています。
お問い合わせなど、お気軽に、ここの下にある【メールフォーム】からか、
tomoko.it.IH@gmail.comまで、メールをお送りください。

アメブロにミラーブログ置きました。
読者登録など便利な機能があるので。
もしアメブロの方がご都合が良ければ
そちらでも宜しくお願いします。
http://ameblo.jp/lalunadigiorno

最新記事

カテゴリ

月別アーカイブ

検索フォーム

【メールフォーム】

名前:
メール:
件名:
本文:

RSSリンクの表示

QRコード

QR

ページトップへ