第4日曜マーケット

2015.04.29 04:19|ご紹介
昨日書こうと思いつつ書かなかった
4日曜マーケットのお話です〜!

以前ご紹介したのは、
3日曜マーケット
規模が第4日曜のより大きい。

うちの町は海に面してるせいなのか
夏が近づくと、こうやってマーケットが
増えるようになるの。

第4日曜マーケットの規模は
ほんと小さいんだけど、
シチリア(南イタリアの島)や
カラブリア(イタリア地図でいう長靴のつま先の地域)の
特産のブースがあったり、
養蜂場の方からの直接販売ハチミツや
手作り銀細工のペンダントヘッドとか
もちろんよく見かける『アンティーク』な
ブースもあります。

さて。せっかく外出するのだから、と
ボブの調子も良かったので
ちょっと長めに歩いてマーケットへ。

いつもはあまり通らないんだけど
大好きな道を通りました。
公園の角の木。
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ここね、雰囲気が南イタリアっぽくて(わたし個人の感覚)
お気に入りの一画なの。

公園はね
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近所の中では、まぁまあ手入れもされてて
周りに植えられてる木々も
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なんかうちの近所の他の場所とちょっと違う。
南イタリアっぽいような
ちょっと違う空気がある感じがして
ここは大好きな場所です。
ここからもうちょい行くとね、海なの。
写真の奥が海です。

違うアングルから。
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この大通りでもマーケットが出ます。
第一日曜だったかなぁ。
(どんだけマーケット出るねん)

さぁ、マーケットに着きました〜
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ダリ・デザイン的なソファーと
電気スクーター??(Monopattino)


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手前の缶の中に入っているのはコインで、
現在の通貨:ユーロが導入される前の
イタリア・リラのコインもありました。
真ん中上に見える赤紫の紙幣は
リラ紙幣です。

『アンティーク』なブースで
鍵に関する諸々を見かけました。
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こんな天使の鍵穴デコレーション、
初めてみた!
(鍵穴と背景の色が一部重なっててごめん)
イタリアだな〜
こんな遊び心が大好きです。
ちなみに、写真の奥に鍵が束になってるのが
写ってます(見えるといいのだけど…!)

養蜂場から直接販売
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蜂も連れてきてくれてました。
前の第3日曜マーケットで買ったハチミツがね
ものすごく美味しかったの。
加熱処理されておらず、
添加物も入ってないせいか
味も香りも素晴らしくてね。
同じブースが出てたらいいなと思ったけど
今回、このブースの方とお話してたら
どうやら前回購入したブースは
トリュフ販売のかたわらハチミツ販売を
している方達だそうで、
養蜂場から直接販売ブースではなかったもよう。
「蜂蜜買うなら養蜂場からですよ!」
と言われて、すっかり乗ったわたしたち。
買いましたよ〜
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食べるの楽しみ!


カラブリア地方の特産品
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甘いお菓子から塩味スナック、
乾燥フルーツ、チーズ、サラミなどなど。
イタリアはほんと地方によって
いろんな特産品があって
全く違うので、それを見るのも楽しいです。
しかもこのブースのおじさま、
気前が良くて、ちょっと話してたら
「これ食べなよ」って、
売り物のお菓子・アーモンドベースの
ピスタチオ風味の柔らかいクッキーを
その場で開けてプレゼントしてくれました。
美味しかった〜〜!

今回、ハチミツ以外に買ったのが
こちらのブースから、です。
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左手前に見えてるのはオリーブです。
オリーブが売られてるときね、
塩漬けされてないのは
Olive Dolci(甘いオリーブ)と名されて
売られています。『甘い』といっても、
砂糖漬けされてるわけでなく、
素のオリーブといった感じで、
オリーブのほんのりとした甘さで
美味しい。
そして、わたしたちが買ったのは
写真左側にある丸いのん。
タラッリ(Taralli)です。
わたしはローストされたタマネギ入りを
ボブはポテトとオリガノ入りを
選んで買いました。

じゃん。アップで
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左がタマネギ、右がポテトとオリガノ。
(左のタマネギのロースト見える?)
タマネギ入りは最高に美味しかった!!
タラッリね、スーパーとかでも
大量生産のは売られてるんだけど
やっぱり違う〜。
食感もすごく良かったです。

もっとスタンドの写真を
撮ったと思ってたんだけど
少なかったなー
また機会があれば次回に!

『強さ』って何だろう?

2015.04.28 03:58|思ったこと・気づいたこと
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昨日はボブの調子も良かったので
ささっと第4日曜マーケットに行ってきました!
…と書こうと思ってたんだけど。

久しぶりにFacebook開いて
見かけた言葉の中の

『… find your own inner strength,…
 (あなた自身の内なる強さを見つけ)』

という一節が、引っかかってね、
強さって何だろう?と思った。

で、考えてたらね。
強さって、決心とか勇気のことかなぁと。
でも弱さでも、結局は決心であって勇気であり、
そして行き着くところ、
強くても弱くても
強くなくても弱くなくても
それは同じことで、
それでいいんだろうなぁ、と。

*********************************

ちょうど数日前にね、ボブが
「これからは『強くなる』って約束するよ」
と言ったのね。
で、わたしはこう返事したとこだった。

「強くなりたいのなら、なってもいいけど、
 別に無理してならなくてもいいよ。
 弱かったり(vulnerable)、
 もろかったり(fragile)するのは
 それは悪いことではないと思う。
 むしろ、弱くありたい
 もろくありたいときに
 『強くなろう』とするのは
 それは自分にウソをついて
 無理させてることになると思う」

って。

思ったんだけどね、
『強さ』ってみんな持ってて、
自分に『在る』ものなんだと思う。
そして自分で選んでるんだろうと思う。
自分はどうあるか、と。

で、どっちであってもいいと思ったのね。
どっちでなくてもいいと思うし。

わたしたちは『強さ』と『弱さ』を
行ったり来たりしてるんだと思う。
時には強くしなやかでいたり、
時には強くもなくて弱くもなくて、
時には弱くてパキッと折れちゃったり。

どれが良いとか悪いじゃなくて
どれでもオッケーなんだと思う。
ただ経験してるだけなんだ、
ただそれだけなんだろう、と。

でね、ある状況になってね、
「強くなる、なりたい」としたとき。
それは「そうする」とした
『決心』だったり『勇気』が
強さなんじゃないかなぁと思った。

「強くありたい」と思った対象を
正面から見る勇気だったり、
自分の恐れと向き合う決心だったり。
ハラをくくった、とか
そういうことでもあるのかな、と。
えいっと飛び出すための決意とか勇気が
強さなのかもしれない、と。

でね、弱さについて思うのは。
わたしね、弱くてもいいやんと思う。
意識的にでも無意識的にでも、
自分がそうあろうとしているのだから。

弱くありときに、
無理矢理、強くいようとするのは
自分にウソをついてると思うのね。
自分に無理をさせてることでも
あるんじゃないかな、と。

なんかね、今まで人と接してきたり
集合意識から感じることは
「『弱くいる』ことはダメだ」という感じで
なんとかそこから抜け出そうとしているのも
感じるのだけど、
そうやって弱さをチラ見する程度で
弱さを嫌って抜けようとすると
もがけばもがくほど、
足を取られて嵌ってしまうのだと思う。

弱さの中でそれをとことん味わってたら
弱さと自分が同化し、境界線がなくなって
ふと気がついたら、自分の周りが
ガラリと変わってた…と気がつく思う。

弱さの中にいるのを選択して、
「弱さに浸かる」というのも
決心だし勇気だなーと思った。

強くなろうとして
「ちょっとの勇気を出す」のも、
決心で勇気だし。

ということは。
結局はどっちでも決心や勇気だな、と。
弱さの中に居ても、
結局は強さになるんだ、と
気がついた。

弱いときがあって
強いときがあって、
弱くも強くもないときがあって。

そして、どうであっても同じことで
それでいいんだろうなぁ。

施術効果を感じてこなかったボブの変容と昨日の続きと

2015.04.23 04:39|思ったこと・気づいたこと
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昨日の続きでもあります。

ボブね、自分ではっきりと
「僕には(どんなセッションも)
 効果が無いんだ」と
ずーっと言ってました。
そう、セッションの効果や癒しを
全く感じてなかった人です。
自分で体感が得られて無かったのね。

それがね。

変わったの。変化を感じるようになり
「僕は(効果が出るのに)時間がかかるタイプなんだ」と
認識するようになった。

ボブね、ほぼすべてに置いて
体感を感じないタイプの人。
感受性が低いのね。
それに加えて『自分の変容』のイメージが
あまりにもひとつのことだけに
こだわり過ぎてて、『それ』に
ピッタリ当てはまっていないと
効果が出ていない、と、ずっと思ってた。

それがね、
本人にとっては感じられていなかったほど
微妙だとされていたことが、
セッションを重ねたり、時間が経つうちに
積み重なって
「以前とは物事に対する自分の反応が違ってきた」
ということに気がついたらしい。

IHなどのセッションを一回しただけで
変容がいきなり起こって
バーンと突然変わる人もいると思う。
でも、ちょっとずつ、
「あ、、なんかいつもと違う」みたいな
少しずつ、柔らかく変わっていくことも
あると思うのね。

それぞれが、本人にとってベストなタイミングであり
すべてのそんな体験が必要なプロセス(過程)だと思う。

でね、こんな必要な体験(効果が出ない)は、
クライアントとしての立場だけでなく、
時には、施術者側にとっても
必要な体験になっていることもあると
わたしは思う。
お互いがその時に必要な経験をしているのね。

わたしがボブにしてきたセッションは
その都度わたしの出来ることの最大を
してきたから、それに関しては
疑問はないのだけど、
「なぜボブにはこうなんだろう」
と、わたしの探求の原動力にもなってたのね。

************************************

さて、変容したボブなのですが。

以前だとIHのプロトコルが出て
精神的な調整になり、軽く説明すると
「ふ〜ん…」てな感じだったのですが
それが今では
「そうだね、あると思う」と
認識するようになりました。

そして、ここ最近の術後のボブへのIHでは
特に身体の痛みへのセッションに関しては
即行性があり、ものすごい効果が出ています。
本人もしっかりと感じられ、
セッション中ですでに、そして、その後も
どんどんと痛みがひいていったのね。

でもこれを超えて驚いたのが。
実は、ボブ、また近々手術することになったの。
以前だとこんな状況だとガーーーン…と
すんごい落ち込み、どんよりしていたのが、
前向きなの。そして軽くて爽やか。
「こういうこともあるか〜。
 手術するよ。終わったらスッキリするだろう」
とか言ってね、
ほんとにエネルギーが軽いの。
「なんか、、僕、変わったよなー」と
自分でも言い、認めるほど変わってます。

あれだけ体感を得られなかった人が。
あれだけ「僕はセッションとか効果無い人だ」と
言い続けてた人が。

ここまで変わったんですよ。
時機が来たら。

だから、あなたにも
超絶妙な時機に「あ…」と気がつく時が
来ると思います。

************************************

あとね、これはボブのこととは
関係が無いのだけど。

昨日ね、

>今の自分を好きですか?
>すべてを丸ごとひっくるめて好きかな?

と質問したんだけどね。

『自分を好き』になるのに、
『引く(何かを手放す・とか)』をして
自分を好きでいるのはラクな感じがするんだけど
『足す(何かを求める・とか)』をして
自分のことを好きになるようにするのは
ちょっと大変かなぁと思ったの。
(それを経験するのもいいんだけどね)

何かを求める、ということは、
それが手に入っても、すぐに他の何かを
探し求めてしまう傾向があるように思う。
というのも、何かを求めるということは
『足りない感』『満たされていない感』が
根底にあるから。
一時は満たされているかもしれないけど、
そのうちまた、何かが足りないと感じ、
次から次へと探し求めてしまうような
そんな傾向を感じました。

自分の外で何かを求め、手に入っても
それが自分を満たしてくれるのは
『限りがある満たされ感』のような感じが
わたしはする。

ずっと感じていられる、
いつも自分と共にあるような
『続く満たされ感』は、
自分の中にあると思うのね。

だから、もうあきらめて(!)
自分はどれだけ素晴らしい存在なのか、
真正面から見つめてみてください。
そこに見つけられると思うから。

ちょっと話があちこち飛びましたが、
昨日の続きで、付け足したいことを
書きました。

完璧で素晴らしいあなたへ
もしかしたら、あなただけが知らないだけで
周りのみんなはあなたの素晴らしさに
気がついてて、しかも、
助けてもらってるのかもしれないですよ。
そろそろあきらめて(!)認めてください〜

『癒し』って起こるもの?

2015.04.22 04:25|思ったこと・気づいたこと
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「全く癒しが起こらない要因は何だと思いますか」
ということでご質問をいただいてね、
お返事書いてて気がついた。

『癒し』って、起こるものでなく
ここにすでに『在る』状態のこと
なのかもしれないって。

癒されていない、と思うのは、
そこに入れていない
(アクセスなり共鳴なりできていない)
だけなのかもしれない、と。

*****************************************

そもそも『癒し』とは何なのか。

癒しって何だろうね。
みんなそれぞれ違うんじゃないか、
と思った。定義の幅が広過ぎる。

でね、ここで、自分にとって
『癒し』とは何かを捉えられていないと
癒しが起こったとしても
感じられないかなぁと思った。
何が起こってるのか分かっていないのだもの。

で、「癒しとは何なのか」を
掴めていたとしても。
あまりにも
「自分にとっての癒しは『これ』です!」
と、ひとつのことに執着してしまってると、
癒しが起こってるのに気がつかないこともあるのね。
自分が想像してたのと違う『癒し』が起こっちゃったから。

『癒しは起こっていない』と思ってても
実は、自分だけが気がついていないだけで、
周りのみんなはもう自分の変化に気がついていた…
ということがあります。

これは、
・こうあるべき
・こうでなければいけない
という思いを持っていたり、
・思考タイプ
・正義感が強い
・完璧主義
・真面目すぎる
・融通が効かない
などをお持ちの方に
多いように感じられます。

そして、癒しが起こらない、というケース。
先輩方も言われてるけどね、やっぱりわたしも
それは必要なプロセス・体験だなぁと思う。
で、ものすごいベストなタイミングで、
ほんと絶妙すぎるタイミングで
スコーンと抜けるのね。
もしくは、ある日、突然気がつくの。
自分がもうその状態(癒された状態)に
いるんだってことに。

まぁそんなことを横に置いて、
セッションなどの経験から
わたしが感じた
なぜ癒しが起こらないのか、ということ。

・被害者意識
・幸せになりたくない意識
・原始反射の残存

これらに加えて、わたしが感じた要因は

・自己価値が低い
・恐怖(変容が恐い)
・全てをコントロールしたがる意識
・執着
・渇望
・トラウマなどの個人的要因
・感受性が低い(変容は起こっているのだけど気がつけない)

今思いつくのはざっとこんな感じです。
人それぞれなので、みんながみんな
これに当てはまるとは思わないのだけど

*****************************************

でもね、思うのだけど。
そもそものとこね、
『癒し』って、手放すことだとも思った。

もう何千回も聞いてきて耳にタコだらけ
かもしれないんだけど。

やっぱりね『サレンダー』だと思う。

『あきらめる』とか『ゆだねる』とか。

「癒されていない」とか
「癒されたい」とか
「癒されていなければならない」とか
なんかもうそんなことを手放したら、
癒されてるんじゃないかな、と。
パラドックスかもしれないのだけど、
そう思うの。

そもそも、わたしたちは、
今、このままで『完璧』なのだから。
まずは自分が持っていること、
苦手だとか辛さを引き起こしていると
思っているそんなとこも
『自分のもの』と認め
抱き抱える(embrace)ことが
癒しへ繋がってるのかも、と
思った。

でね、ここで、あなたに質問。

今の自分を好きですか?
すべてを丸ごとひっくるめて好きかな?

あのね、自分の中で、ダメなとこや
直さないといけないとこなんて、
無いのね。

今のそのままのあなたで完璧。

そこから出発して欲しい。
だって、
「○○なとこの自分はイヤ」と
排除するとね、その部分が欠けちゃうでしょう?
すると『完璧』じゃなくなるのね。
欠けてるから。
そんな苦手なとこも含めて
あなたは完璧なの。

「そんなん言われても
 そんな自分のことを
 好きになれないから
 辛いんじゃーー(がぉーー)」

という場合。
あなたの身体に聴いていないので
特定の要因は分からないのですが
とりあえずのおまじないの言葉として
「ま、いっか」があります。

自分が苦手としているところ、
まだ好きになれていないとこに対して
「ま、いっか」とする(言う)。
最初は思えてなくてもいいから、
とりあえず言ってみてください。
言い続けてるとね、そのうちほんとに
「まぁどうでもいいか〜」となると思う。

で、そこからその部分も抱きかかえ
丸ごと自分を好きでいてください。
そしたらね、自分の世界が変わるの。
癒しの中に居るんだって
気がつくと思う。

*****************************************

わたしにとって『癒し』とは、
もう「ここ」にある状態のこと。
で、手放すことでもあり、
気づきでもあり、
意識の持ち方を変えることでもある。

そして、
そもそものところは
『自分は完璧だ』という視点から
自分を好きでいること、かなと
思っています。
そしたらね、自分は癒しの中にいる、と
気づくと思う。

わたしは、
癒しと無縁の方はいないと思っています。

もし、辛さを感じているのなら
意識の持ち方をちょっと変えてみて
自分を大好きでいてくださいね。

あなたが心から自分のすべてを
好きでありますように。

アランの音叉増えました!あとね、音の周波数の違いを聞いて思ったこと

2015.04.18 04:27|思ったこと・気づいたこと
じゃん。またアランの音叉を買ったの。
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経絡音叉、と

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ディヴィニティ(Divinity)音叉、です。

ボブへのここ毎日のセッションで
ガンガン使ってるし、
わたしを楽しませてくれてて
大活躍してくれています。
すごいタイミングでうちに
来てくれたなーと感心。
やっぱりアランの音叉は
ワクワクして、すごく嬉しくなる。

わたしの主観(主感?)だけどね。
経絡音叉は、身体に響いてくる感じする。
わたしが持ってる音叉の中で
振動系音叉を除いて、一番身体に響く。
音が身体を撫でてるような、
そんな感じかな。
鳴らしててもね、手の中で
音叉のグリッドが振動してるのを
ものすごく感じる。
もうね、わくわくして
すごく楽しい。

ディヴィ二ティーはね、
包まれる感じ。ふわり、と。
今日もわたしに使ったんだけどね、
今日の組み合わせは、いつもにも増して
琴線に触れられた感じだった。
天使の歌声、というか
天使のコーラスがあるとしたら。
「ああ、きっとこれなんだろうな」と
ふと思った音が出てきた。
ディヴィニティー、
ものすごく楽しませてくれています。

ちなみに、ディヴィニティーセットには
トリニティーセット(3本)が
含まれています。
ああ、幸せ〜

次回、日本へ行く時に持っていくので
また音を聞いてくださいね。

***********************

ところで。
Facebookの方で流れた記事の一部で
見かけたのことなんだけど。

音の周波数:
440 hz と 432 hz で体感が違うということ。


よかったら、実際に聞いて、
『440 hz と 432 hz で体感が違う』
ということを感じてみてください。

感覚の先入観を入れたくないので、
あえてわたしが感じたことは
書かないでおきますね。

同じ人が同じギターを使って同じ曲を
演奏してるのに、聞いたら
ここまで体感の違いが出るんだなぁと
わたしは感心しました。
ほんの8hzしか違わないのに!

最初はただ単に
『ここまで体感が違う』ということに
驚いてたんだけどね。
なにかがわたしの中にひっかかってね。

なんだろう、、、と思って
他の動画を見てたら気がついた!

ねね、よかったら、これも見てみて


最初の動画で、440hzと432hzの違いが
掴めていると、この動画では
すぐどちらがどっちか分かると思うんだけどね、
これ聞いてて思ったことがあったの。

わたしね、最初の動画を聞いてたときには
432hzが自分に合ってる感じがして、
そっちがいいなーと思った。
でもね、二つ目の動画を見てたらね、
ハッとした。
曲によっては、440hzが好きだったの!
曲によっては、440hzがしっくりきて、
もしそこを432hzにしたら、
合わないなと感じた。
まぁ、合う・合わないは、
わたしの好みと主観なんだけどね。

でね、思ったの。
グラウンディングが出来ていないと
432hzはふわふわしてしまうことも
有り得るんじゃないか、と。

逆に、
440hzは、地に引っ張られるような感じ。
ガツン、とね。

で、ここで気がついた。
音にも適材適所があるなぁ、と。

だから、
どちらが「いい」とか
どちらが「自分に合ってる」とかではなく、
『状況によって、自分に合う音は違う』んだって。
だから『すべての音が自分に合ってる』と。

***********************

なんかね、ここに気がついたら、
「あれ?これって、人間の素質にも当てはまるなぁ」と
思ったの。

例えば、なんだけど。
ボブに指摘された『わたしの頑固さ』。
これね、わたしがイタリアに来た当初、
ここでやっていくには
必要な素質だったの(わたし個人の感覚です)

今でこそ、はっきり物を言って
日本では『はっきり言い過ぎ』なのか
「あ、なんかやってしまったような」と
時々感じることもあるのですが
イタリアに来た当初、ここまでじゃなかったのね。

周りの人はみんな『我』が強いと感じて
周りに流されてしまうこともあった。

ここでやっていくには
もっと『自分を持ってしっかりしないと』と思い、
自分の中にこだわりを持ってしまって
譲らないとこは頑として譲らなくなっちゃった。

…で、ボブとの関係(対人関係)で
スムーズにいかないこともあった、と。
『頑固』を使うとこを間違ってました。
適所じゃないとこで使ってた。

でもね、ハートから感じる
自分のやりたいことをやりたい、と
思うとき。
これは、誰に何と言われようが
自分の中で持ち続けました。
時機が違うからまだできない、とか
あったけどね、自分の中で持ち続けた。
ここで『頑固』を使ってました。
おかげで、ブレなかった。
これは適所だったなーと。

***********************

自分が持ってる要素って、
時として『諸刃の剣』みたいなことも
あると思う。

使うのに適所があると思ったのね。
使う場面がピッタリくると
ものすごく自分の良い面が出てくる。

もし、使う場面を間違えちゃったら。
例えばわたしの頑固を対人関係で
「流されたらいけない、自分がなくなってしまう」
みたいな、恐怖や恐れから
使ってしまったら、
自分をも傷つけちゃう。

でもでも、そんな諸刃でも
やっぱり必要な要素なんだよね。
自分の中にあるんだもの。
持ってるんだもの。
ただ、使うのに
『適所がある』というだけのこと。

適所を知るには、やっぱり失敗
(真の意味では『失敗』はないのですが)も必要だなーと。
失敗しないと、どこが適所か分からないもの。
失敗したことで、
沢山あった『適所の候補』選択肢の
ひとつを消去できたんだもん。
「はい、終わり。次行こうー」と
気にせずドンドン進んだらいいと思う。

自分が持ち合わせている要素というのは
どれがポジティブとかネガティブとか、
変えないといけないとか、
手放さないといけない、とかではなく、
『どう使うか』だと思う。

自分の持ってるすべての要素が、
ものすごいギフトだと思うの。
なのでどうか、
ちょっと苦手だなと思う要素も
しっかり見つめて、
適所で使ってあげてくださいね。
そうすると、それすらも大好きになると思う。

ポリクリニコと非常口標識と便座の無いトイレ

2015.04.14 04:18|ご紹介
ボブがローマの病院で手術をしたので
しばらくローマに通ってました。
(もう退院しました〜)

入院してた病院『ポリクリニコ』ね、
敷地がものすごく広大なの。
Googleマップで見てみたら
(地図のピンク色の部分が病院の敷地)
やっぱり広いなーと思った。

地下鉄も
『ポリクリニコ(Policlinico)』の
駅名があるくらい。
ホームはね、こんな感じ。
20150413_03.jpg
ミツバチを彷彿させる彩り。

駅から出て、ちょっと歩くと病院です。

敷地に入っての案内図はこちら
20150413_02.jpg
右側に説明があるんだけど
文字が抜け落ちてます、、、
ちょっとした謎解きの気分も
味わえる案内板です。

敷地に入るには4つ入り口があって
わたしが入った入り口からは
少し歩くとこんなモニュメント?が
あったりしてね。和やかな感じ。
20150413_04.jpg

でね、病院の建物なんだけど、
建物は真っ白…とかじゃなくて
住居みたいな建物なの。

20150413_12.jpg

20150413_15.jpg
なんか良い感じ。
わたしは好きです。

20150413_13.jpg
敷地内は広いから、
要所要所で、建物の壁に
簡易版案内図が貼ってました。

アップで
20150413_11.jpg
…見ても、分からんときは分からんわー

建物の入り口には一応何科が入ってるか
看板かかってるけど、、
20150413_08.jpg
みんな迷うみたいで、あちこちで
道をたずねてる声を耳にします。

小児科の建物の前で
食事を入るカートが並んでるのを
偶然見れました!
20150413_01.jpg
可愛いでしょう?!
こういう遊び心は好きだなー

建物には無料WiFiも
入ってるっぽかったんだけど
20150413_16.jpeg
一度試したら
表示されるのが重いのか遅くて、、、
利用に必要な登録ページにすら
たどり着けなかったほどで諦めた。

救急車はこんな感じ
20150413_14.jpg

あとね。
非常口の標識なのだけど。
イタリアだとこんななのね
20150413_06.jpg
(真ん中のね)
『ドアに向かう』感じ。

日本だと
20150413_07.jpg
もうドアの前にいて、
『脱出中』って感じなのにね。

お国の雰囲気出てるなぁと思った。


ところで。
手術のために入院するとね、
日本も同じかもしれないのだけど
イタリアでは、
血管内留置カテーテルを
患者の手の甲か腕の外側に挿入します。

ボブもつけてもらったんだけどね、
今回は、そのとき一緒にした採血やら
他の注射やらのときに
血がプシューーッと吹き飛んで、
ホラー映画さながらの
スプラッター状態になったんだって!
カテーテル設置してくれた人が
白衣はもちろんのこと
顔面にも返り血を浴びたって、、、
研修医だったのかと思いきや
ドクターだったそう。
ボブの腕には失敗した大きな青い痕やら
針がスルリと入っていかなかった痕が
いくつかあって
「あの人、ドクターとしては
 良いんだけど、注射に関しては
 よく知らない人だな」
とボブは言ってましたが、
なんか納得した。。

あとね、イタリアで入院したら。
女性の相部屋はどうなってるのか
知らないのだけど、
今回はもちろんのこと、
今までのボブの入院で経験した際
すべてに置いて。

男性用相部屋のトイレの便器には
便座が設置されてなかったの。

もしかしたら、手術したから動けなくて
トイレに行けないから必要無い、
のかもしれないのだけど。

過去にボブは足の複雑骨折で
整形外科(Orthopedic)に
入院してたことがあるんだけど、
同室に患部が手の患者さんがいらしてね。
歩いてお手洗いに行ってらしてて。

まぁ男性だからおしっこの時には
便座は要らないのだろうけど。
大きい便をもよおすこともあるだろうに

どうしてたのかしら。
便器にそのまま座ってるのかなー

今日の散歩。ピンク花の木と、アフリカ?とコルネット

2015.04.08 04:02|ご紹介
うちの近所の街路樹ね、
今の春の時期になると
ピンクの花が咲く木があるの。
20150407_03.jpg
奥の方の木々もピンクの花が
咲いてるのが見えるかな。
そんな感じでね、道路によっては、
ピンクの花が咲く木が並んでたりします。

他の道ではこんな感じの咲き具合
20150402_11.jpg

太陽の光が当たってるかどうかで
花の咲き方が変わってくるので、
同じ木でも、咲き具合が違ってきます。
この写真だと分かるかしら。
20150402_12.jpg

お花のアップ
20150402_05.jpg

20150407_04.jpg

木の名前は知らないのだけど、
わたしにとっては、この花が
春の花で、桜のかわりとなっています。

今日はものすごく天気が良くてね
木材を買いに行く用事があったので、
散歩がてらに行ってきました。

じゃん。ここ通ったの。
20150407_06.jpg
アフリカっぽくない?
でもね、うちの近所なの。
松の木が植えられてるゾーンなの。
ジョギングしたりしてる人がいます。

20150407_07.jpg

20150407_08.jpg

20150407_09.jpg
今日はほんと天気が良かった。

大通りからの入り口はこんな感じ
20150407_10.jpg

写真ではえらい大層な感じがしますが、
実際はそんなに大きな場所じゃなくてね。
車でもうちょっと行ったことに
もっと大きな公園というか、
松の木が植えられたゾーンがあります。

散歩のついでに。
久しぶりに食べました。
コルネット(クロワッサン)。
20150407_01.jpg

フランスのクロワッサンは
バターたっぷりで塩っぽい感じが
わたしはするのね。
それは、イタリアのが
甘いからだと思う。
中に何も入ってなくても甘いの。
今日食べたのは、
ヌテッラ(Nutella)というクリームが
入ってる。
20150407_02.jpg
しかも、表面は軽く
シュガーコーティングがされた上に、
粉砂糖がかかっています。甘い〜
でも、表面はパリパリとしてて
中は柔らかくて美味しかった!
ヌテッラもものすごく久しぶりで
たまに食べるとすっごい美味しい。

ヌテッラね、ヘーゼルナッツをベースに
作られたチョコレートクリームな感じ。
20150407_15
(画像はhttp://www.nutella.it/it/お借りしました)

ヌテッラはヨーロッパでは有名で、
日本でも、百貨店の食材売り場で
何度か見かけたことがあります。
イタリアでは
ものすごい人気があるクリームです。

コルネット(クロワッサン)の種類は
他に
・クリーム
・ジャム
が定番で、お店によっては
・生クリーム
・生クリーム&イチゴ
というのも見たことがあります。
それもね、コルネットを上から
長く縦に切り込みを入れて、
生クリームたっぷりだったの!
朝からエネルギー補充たっぷりだなー

今日は、うちの近所と
コルネット(クロワッサン)の
ご紹介でした〜

宗教と受け入れることと、人と調和と良さと

2015.04.06 04:39|思ったこと・気づいたこと
今日は雨の復活祭でした。
家を出たときは雨降らないかなと
思ってたんだけど、教会のミサに出た後
外に出たらもう雨降ってた。

その後、行きたいとこにいく道のりで
海辺を歩いたんだけどね、
なんか冬みたいだったよ。
20150405_01.jpeg

波も高かった!
20150405_02.jpeg
風が強いのとか波が高いのは
なんかワクワクして大好き。

それにしても
一昨日の青空はどこに行ったのかな。
気温が下がっちゃって、
青空がちょっと懐かしい。

もう覚えてないほどむかーし、
バチカンのサン・ピエトロ広場での
ローマ法王の復活祭ミサに
参加したことがあるのですが、
あの時は日差しがきつくて暑いほどでした。
あ、4月だったのかな。
復活祭の日は毎年変わるからな〜
(ちなみに、復活祭の日は
 春分の日の後の
 最初の満月の後の
 最初の日曜日です)

そしてそして。
昨日からは、
ユダヤ教の「ペサハ」です。
一週間続くそうで、日本語では
過越祭(すぎこしさい・
 パスオーバーPassover)とも
言われてるそうですね。
イスラエル人が奴隷から解放されて
古代エジプトから脱出したことを
祝ったことが由来とされているそう。

イタリア(というか欧州全体でかな)は
いろんな国や宗教が混ざってるから、
こんな宗教情報はニュースで日常的に
流れています。

日本は「宗教」となると
過去に起こったことも影響しているのか
なんだか怪しげな扱いになったり
話したりするのはタブーな雰囲気が
あるような感じがわたしはするのだけど。

わたしね、
宗教は『道しるべ』みたいなこと
なのかなぁと思っています。
そして、すべての宗教は、結局は
同じことを表現を変えて
言ってるんじゃないか、と思う。
すべてたどり着くとこは同じだなぁと。

例えばなんだけどね。

山登りで頂上を目指すのに
・北の登山口から登ったとしても
・南の登山口から登ったとしても
・西の登山口から登ったとしても
・東の登山口から登ったとしても
どの登山口から登ったとしても
すべては正解であって、間違いではなく。
どこから登ったって良いんだと思う。
どこから登っても頂上に着くのだから。

それぞれの道中で景色が違って
見えることや聞こえること
気づくことやひらめきが
違ったりするかもしれないけど
それぞれの良さがある。

もしかしたら、
北の登山口からは道のりが長くて
「遠回り」とされるかもしれないけど
その「遠回りの良さ」がある。
道中いろんな景色を見れるものね。
そして、その道中で何を得るのか。
得られたことによっては
「遠回り」ではなくなるとも思うの。
そもそも何をもって
「遠回り」としているか、だと思う。

だから、
どれが悪いとか間違ってるとか
無いと思う。

もしかしたら、
『自分に合わなかった道』だから
「あれは悪い道だった」と決めつけて
しまうかもしれないのだけど、
それは、ただ、
『自分に合わなかった』だけだもの。
『他人に合う』かもしれないもんね。

**********************************

わたしの育った環境は
浄土真宗の仏教で、小さい時から
お寺に連れて行ってもらったり、
家には神棚があって、
いつも新鮮な榊が飾ってありました。

祖父母の家には、大きなお仏壇があり
支え棒を使ってご飯やお水を
お供えする役目をしたり。

身内には、
敬虔なエホバの証人の方がいて、
文字が読めるような歳になるや否や
パンフレットを渡してくれて
それを見たりして。

小学校に上がったときに
引っ越した先では、
近所の同学年の子達の中に
カトリック教徒の子や
エホバの証人の子がいました。

ボブはカトリックで育ったのですが
育った国が中東の国だったので、
毎日スピーカーから流れる
コーランを聞いていて、
今でもコーランの幾つかの節は
暗記していてうたえるほど。
そして、身内にユダヤ教徒の方が
いて、その宗教行事にも
わたしも参加したことがあります。

もしかしたら、わたしはこんな環境に
いるので、「宗教」に対して、そして
いろんな宗教に関して何の疑問も
抵抗もなく接しているのかもしれませんが、
ちょっと思ったのがね。

宗教に関して
「ちゃんと知らないことへの恐怖」が
あるんじゃないかな、と。
暗闇が恐いのと似たような恐怖。
何があるのか分からない、みたいな。

宗教って、洗脳されるとか、
コントロールされちゃうとか、
そんなんじゃないと思う。

自分を失って嵌ってしまうと
そうなっちゃうのであって。
依存してしまうと
そうなっちゃうのであって。

宗教の教えは「道しるべ」なので
自分で解釈して選ぶものだと思う。
そこを完全に依存するのはどうかなぁと
(それも経験するのもいいかもしれないのだけど)

でね、宗教と接してても
『人』と接していることを
忘れないでいたいな、と思う。

自分とは違う宗教を信じている人。
もしかしたら理解出来ないような
宗教であったとしても、
わたしたちが接しているのは
その人が信じてる『宗教』ではなく、
その宗教を信じている『人』であること。

人と交流していることを覚えておきたいなぁ、と。

違う考えがあることを認め
それを受け入れることが
調和をもって生活していけることだと
思う。
そして、それが、
生きていくことでの楽しさと良さと
美しさでもあるのかなぁ、と
思っています。

カルマの認識と自分の意識、自分が創りあげていることと

2015.04.04 03:22|思ったこと・気づいたこと
20150403.jpg


昨日の続き
ボブと話してたことです。

わたしね、
『自業自得・因果応報的カルマ』
というのは、無いと思ってる。

カルマの認識が
人それぞれ違うみたいなので
そこからなんだけどね。

むかーしのわたしは
カルマは『自業自得・因果応報的』な
ことだと思ってた。
そして、存在すると信じてました。
いわゆる「良い行い」のカルマも
あるはずなんだけど、
そこにあまり気はいかず、
どちらかと言うと
「悪い行い(というのは無いんだけどね)」の結果的な
辛い・苦しい・大変な状況にばかり
気がいってた。
「今の辛い状態は昔何かしたからなんだろう」
みたいな感じで。

でもね、ふと思ったの。
なんか違うな、と。

自分が間違ってたことに気がついたら
違う方向を選んで実践すればいい、と。
ただそれだけなんだって。
わざわざ「辛い」「苦しい」「大変」を
味わうことの選択をしなくていいんだって。

なので、わたしが信じてた「カルマ」とは、
ただの「気づき」なんだなぁ、と。
そして、これも踏み込んでいくと、
『どこに視点・観点を置くか、で、変わってくる』
と気がついた。

********************************

それが、ものすごくよく表現されてるのが、
アレハンドロ・ホドロフスキー監督の
映画「リアリティのダンス」での
シーンだと思う。

アレハンドロ少年が
怒りにまかせて石を海に
投げ入れるシーンがあるのね。

石を海に投げ入れたら、
大量のイワシが海辺に打ち上げられ、
そんな魚たちが死んでいく様を観た
アレハンドロ少年は自分の行為に対し、
良心が咎めるのだけど

一方、浜辺の向こうの方から
大勢の腹を空かせた人たちが
そのイワシを目当てにやってくる。
そしてイワシのおかげで空腹を満たされた。

アレハンドロ少年は
イワシを大量に死なせてしまったけど
そのおかげで、
そのイワシを食べられて助かった人々もいる。

どこに視点を置くか、で、
自分の行為すら
思うところ、感ずるところ、
気づくとこが変わってくると思う。

なので、わたしにとってカルマとは
気づきを与えてくれることなだけ、
それさえも
視点が変わると、変わってくる、
という捉え方をしています。

********************************

でね、昨日の記事でお話しした
ユダのことなんだけど。
これもアレハンドロ少年のことと
似てるなーと思う。

(昨日の記事一部コピペして転載するね)

ユダのキリストへの行為なのだけど。

魂での合意の上で行われた、
と前提するとね、
ユダがちゃんと自分の本質を
覚えて生活していたら、ユダ自身では
『しかるべきこと』をしたことになる
と思うのね。

もしそこを忘れていたら。
地球上での人間としてのドラマに
嵌ってしまい、我を忘れ、
自我が大きくなってしまっていたら。
『裏切った』と思ってしまうのかなぁと。


『裏切った』と思ってしまったのなら
自分が辛いのであれば、
その癖を抜くために
(持っててもいいのだけど)
カルマ(後々気づきとしてのサイン)が
生じるのかな、と。

同じ行為なんだけど、
自分でも意識が違うと
『しかるべきことをした』のか
『裏切ってしまった』と思うのか
違ってくるな、と感じた。

ということは。
結局は自分なんだな、と。

自分が、
自分の意識で、
すべてを創り出しているんだ、と。

なんかね、、日々ますます思う。

自分がなにを選択しているのか
自分がなにに・どこに共鳴しているのか
自分がなにを創り出しているのか
そして
自分の意識はどうあるのか

ここなんだろうなぁ。

ユダの行為は、起こるべきして起こったんだと思う

2015.04.03 03:51|思ったこと・気づいたこと
20150402.jpeg

今日はホーリー・ウィークの聖木曜日。
『最後の晩餐』を記念する日でもあります。

ボブと話してたんだけど
わたしは、ユダはキリストを
『裏切った』と思っていません。
あれは魂での合意の上で起こったこと、
起こるべきして起ったことなんだろうな、と。

********************************

『ユダはキリストを裏切った』
とされているのだけど。

生まれてくる前にね、
自分で決め事をして生まれてくることがある、
とか聞いたことがあるかな。
そんな感じでね、
ユダのキリストへの行為は、二人の間で
『ユダ』『キリスト』として生まれる前に
魂的に合意があったのでは、と
わたしは思う。

キリストが誰なのか、何なのか。
そもそも、わたしたちは何なのか、
どこから来てるのか。
地球での人間の意識や
その動き方などを感じると、
『ユダとキリストの間で
魂的に合意があったのでは?』と
感じるかなぁと思うんだけど、、、
うーーん、どうかな。

でね、
ユダのキリストへの行為なのだけど。

魂での合意の上で行われた、
と前提するとね、
ユダがちゃんと自分の本質を
覚えてて生活していたら、
ユダ自身では『しかるべきこと』を
したことになると思うのね。

もしそこを忘れていたら。
地球上での人間としてのドラマに
嵌ってしまい、我を忘れ、
自我が大きくなってしまっていたら。
自分でも『裏切った』と
思ってしまうのかな、と。

同じ行為でも、
それをした後で時間が経っても、
自分の意識が違ったり、変わったりしたら
『しかるべきことをした』のか
『裏切ってしまった』と思うのか
違ってくるのかなぁ、と。

でもそれすらも
(ユダが自分で『裏切ってしまった』と思うことも)
すべて、起こるべきして起こったのかも。

わたしは、ユダが自分の本質を
覚えていても
覚えていなくても
それはどっちでもよくて、
『起こるべきことが起った』と
思っています。

********************************

…と、ボブに話してたんだけどね、
言われたことが2つありました。
まずひとつめ。

「『起こるべきことが起った』って、
 そんなの、シンプル過ぎるよ」

そう思うのか〜、なるほどなぁ、、
で、こう返事しました。

「人生ってさ、シンプルなもんだと思うの。
 そこをややこしくしてるのはわたしたちでさ。
 エゴがややこしくしてるんだと思うんだけど」

「確かになー
 言われてみればそうだな。
 そうだと思うんだけどさ、、
 でもなんだか僕にはしっくりこないね」

彼はカトリックで育っているし
もちろんそれでいいと思う。
わたしはシンプルがいいと思うけど、
ややこしくてもいいよね〜
エゴっててもいいと思う。

そして、2つめに言われたこと;

「カトリック教徒として育った僕が
 たどり着かなかった考えを
 なぜ(カトリック教徒でない)きみが
 思いついたんだ?」

答えはまさしくその質問の中にあると思った。
わたしはカトリック教徒として
育ってきてないから
カトリック教会の教えに
縛られてないと思う。
幼い頃からの教え(刷り込み)
というのは強烈で、
一度刷り込まれると
疑問すら持たないことがあるから。

カトリックの教えや
教徒や教会のみなさんには
リスペクトしています。
その上で、思うのが、
引き継いだ教えを自分の中で
じっくり感じて欲しいなぁ、と。

「キリストの教え」として、
キリストの真意(深意)、
言葉の奥にあることも感じて欲しい。
わたしが今言ったことも
あなたは同じように感じないかもしれない。
それでOKなんだと思うの。

キリストが誰なのか、何なのかを感じて
「キリストと自分」の関係を
しっかりと結べられたらいいなと
思っています。

今日はホーリー・ウィークの聖木曜日。
キリストがお弟子さん達の足を
洗ったことから
『洗足木曜日(Maundy Thursday)』
とも呼ばれている日です。
そして『最後の晩餐』の記念日でもあり。

人々の心に灯りがともっているのが
はっきりと感じられる、
わたしにとっては
優しいような週でもあります。

君がいい、けど、君でなくてもいい

2015.04.01 03:32|思ったこと・気づいたこと
20150331.jpeg

友人の娘さんのご主人が
昨年末、急に逝去なさいました。
彼女は、数ヶ月経った今でも
まだ立ち直れていない…
という電話が入った後、
ボブと話してて。

わたしは、
突然いなくなったパートナーという
ポジションに、すぐに他の人を
入れても埋めることはできない、
と咄嗟に思ったのだけど。

違ったわー。
即行、他の人でもOKなんだと
気づかせてもらえました。

そして、離婚についての考えも
もっと軽くなってきました。

*************************

ボブと話してて、わたしは

「時間という薬が
 解決してくれることもあるから
 時間が経つのを待つのも良いかも。
 だってさ、
 夫がいなくなって(他界して)
 すぐ他の男が夫のポジションを
 取って代えられるものかな?」

って言葉が口から出たのだけど。
そしたらね、ボブの反応が

「あ〜、うん、まぁね、、」

と。で、わたし思い出した。
ボブは『ひとり』は苦手だった。

「僕はひとりでは生きていけないから」

「うん。知ってる」

「だからさ、君がいなくなったら
 即行、他の人を見つけるよ」

「うんうん、そうしてよ」

「君もさ、僕がいなくなったら
 すぐに他の男をみつけなよ」

「OK, そうするわ」

なんて会話をして
気づかせてもらったのですが。

そうだよなー
『あなた』が
もういなくなったのなら、
しょうがないもんね。
出てくる感情とは付き合うけど、
それを引きずる必要なんてないものね。

わたしの中のどこかで
すぐに新しいパートナーを見つけることは
先に逝去したパートナーに対して
「悪い」みたいな罪悪感を持ってたことに
気づかせてもらえました。
そんな罪悪感なんて感じる必要ないなー。

わたしはまだこの世にいて、
『今』を生きてるのだから。
いつまでもいなくなったパートナーを
握りしめてるのは(それも良いと思うのだけど)
もし、執着してしまっては、
『過去』を生きていることに
なるのかなぁ、と。

こんなこと考えてたら、
離婚も似たところが
あるような感じがするな、と思った。

離婚に関しては、
悪いことだとは思っていません。
でもね、自分の中で
『出来ることなら避けたほうがいい』
みたいな思いがあったことを、
気づかせてもらえました。

こんな思いがあるということは
離婚はあまりよくないこと、と
どこかで思ってたなと気がついた。
そこを今回払拭させてもらえました。

一緒にいようと思って結婚したけど、
時間が経ったら合わなくなったり、
合っていないことに気がついて
どうしようもないのなら
お別れすることがベストなことも
あると思う。
子供がいたとしても、
親の状態がよくないと
子供にとっても影響が出る。
だから、両親が揃ってる、というのは
一概にはそれがベストだとは
言えないと思う。

だったら、どんな状況であれ
離婚はベストな選択ということも
有り得るんじゃないかな、と思った。
『よくないこと』でもなく、
『避けたらいいこと』でもないなーと。

『イタリアでの離婚』と考えると
そんなに重くならないのに、
不思議なことに、
『日本での離婚』と考えると
重くなってたの。
なんだろう、これ。
日本、いや、わたし系列家族の
集合意識がわたしの中にあったのかしら。

今回すっきりして良かった〜

あなたがいい、
けど、
あなたでなくてもいい。

いいな、これ。

(うちが死別や離婚しそうって
 わけじゃないですよ〜
 一応お知らせしておきます)
プロフィール

ともこ

Author:ともこ
お会いできたみなさま、
ありがとうございました。
また2017年10月に大阪に行きます。
あなたにお会いできますこと、
再会できることを楽しみにしています〜!
(*セッションのご予約はこちら
ご参照ください。

*Facebookしています。
アカウントはこちらで、
お友達申請ウエルカムです〜。

***************
日本とイタリアを行ったり来たり。
筋肉反射を使ってセッションするインテグレート・ヒーリング(Integrated Healing)をしています。
お問い合わせなど、お気軽に、ここの下にある【メールフォーム】からか、
tomoko.it.IH@gmail.comまで、メールをお送りください。

お会いできることを楽しみにしてます。

アメブロにミラーブログ置きました。
読者登録など便利な機能があるので。
もしアメブロの方がご都合が良ければ
そちらでも宜しくお願いします。
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