
(今日の空)
今日、ボブと一緒にテレビのニュース番組を見ていたら、
「マフィア関係の人が何人逮捕された」というニュース。
これを聞いたボブは
「イタリアだけだよ、こんな毎日何人もの人が逮捕されてるのは!」
とまた言い出しました。
ほんとイタリアでマフィア関係の人が逮捕されてるのは多いのだけど、
これを聞く度にボブの演説が始まります。
それもね、私が一緒にニュース見てたら毎回。
ここ数年で、あまり聞きたくないようなことも、
特別な感情が湧くことなく、平静に
聞き流せるようになったんだけどね、
なんか今日は噛み付いてしまいました。
私の中でムクムクッと湧いてくるものがあったのです。
「あなたは『毎日』だって言うけど、毎日じゃないわ」
という私の言葉から始まって、、、ボブとの会話はあれこれと展開。
そこからいろいろと自分の内の発見があったのだけど、
中でも頭にランプ点灯したほどの発見は、
『私はまだ人の話は聞かなければならないと思っていた』こと!
まだ残ってたんだなぁ。
私は親に「人が話しているときは聞かなければなりません」と
言われて育ったせいか、人が話しているときは、
たとえその内容が私にとって嫌な内容であっても聞いてました。
でもね、ある日、気がついたんですよ。
私も『聞かない選択』ができるんだって。
聞きたくなかったら、聞かないで良いんですよ。
私が聞きたくないのだから。
私が自分を大切にしないと誰がしてくれるんだろう?と思ってね。
じゃあ、ただそれだけの理由でもいいやん、と。
これに気がついたときから、聞きたく無い話に関してボブには
「あなたが話したいという気持ちがあるのは分かるけど、
私は聞きたくないのよ」と言うようにしてました。
でもね、これを言うと、角が立つ時があったんですよ。
角が立つ時と立たない時、何が違うのか?
それが今日分かりました!
愛が無かったのです。
前に「私は聞きたくない」と言って角が立ったときは、
私の状態が『もうこれ以上聞きたくないのよ』とか
『いい加減にしてよ』や『またかよー』的な
止めてくれよサインを出すだけで愛がちっとも無かった。
「あなたが話したい気持ちがあるのは分かるけど…」的な
ことも言ってて、思いやりをしたような気持ちを持ってたけど、
愛が無かったんだと思う。言い捨ててたような感じ。
今日「私はもうこれ以上聞きたくない」と言ったとき、
私は自分に余裕があったのを感じていて、落ち着いてました。
心からボブに「もし話したかったら他の人と話して」と
言ってました。
そしたらね、今日のボブの反応が今までとは全く無いものでした。
ボブも落ち着いていて、火花は飛んでいませんでした。
その後、ネットで何か検索してて、私がそばを通りかかったとき
「ねえねえ、きみがもう聞きたく無いのは分かるんだけどさ、、」
と笑いながらさっきの話の続きをしようとしてきたので
「そうそう、私は聞きたくないのよ(笑)」と笑って対応してました。
(そしたら「聞かないで良いよ、紙に書いたから読んでよ」だって!嫌だっての(笑)!)愛が無かったんだと気がついたのもさながら、
自分が○○ねばならない、と思い込んでいると
やっぱりそうなるのだなぁ、と改めて感じました。
ボブのあの演説も「せっかく話してるのだから…」や
「聞いてあげないと…」みたいな思いが
自分にまだあったのは事実です。
聞きたくなかったら聞かなくて良い。
でも、それを伝える(席を外す)のは愛を込めて。
うーん、なるほどなぁ。