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感謝って…なんだろう?

2018.11.30 19:46|思ったこと・気づいたこと
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お友達からのコメントを読んだら
ふと「感謝って…なんだろう」と
考えてしまいました。

なんだと思う?

わたしはいくつか思ったのだけど
その中で一番しっくりきたのが、


「当たり前なことだけど
 当たり前ではないと
 感じて(知って)いる状態」。


これが感謝かな、と思いました。


そもそものところで、
感謝って「する」ことではなく
湧き上がってくることのように感じます。

感謝として、対象に働きかけるのではなく
(自分の)状態のような感じ。


でね、

「当たり前なことだけど
 当たり前ではない」というのは、

例えば

「心臓が勝手に動いていること」とか。

健康な人にとって、
自分の心臓が勝手に動いてるのは
当たり前なことで、別段何も思わないと
想像するのだけど、でも。

これって、凄くない?!
何もしなくても、勝手に動いて
身体中に血を巡らせてくれてるんですよ!

で、何らかが原因で
心臓がうまく動かない状態になって
初めて「当たり前じゃなかったんだ」と
気づくんだよね。。


他には「空気が吸えること」とか。

これは、空気を吸うための
身体的特徴が整っていることはもちろん、

「フィルターなしでそのまま
 吸えるような空気がある地域」

という、
そういう環境に自分が今居ることも
すごいことだと思うんですよ。

そして、その環境がある日本、
しいては地球という視点で見ると
太陽が照っていて、
光や熱が届いている…


……まぁ当たり前と言っちゃあ
当たり前なんだろうけど、
当たり前じゃないとも思うのね。

そういうことを感じていると
ありがたいな〜という思いが
勝手に湧き上がってきます。



余談ですが、わたしね、
日本のスーパーのデリコーナーや
焼きたてパンコーナーに行く度、
いつも感動してます。ええ未だに(笑)

「こんなに美味しそうな食べ物が
 ズラーーっと並んでるなんて!」と。

日本ってほんと飽食だと思う。
そして清潔でキレイ。

こんな所に居られることは
本当ありがたいなぁと、
この状態を創ってくれている
人々や環境すべてに
感謝が湧き上がってきます。


スーパーのデリの前で、
感嘆の吐息を洩らす日々を
送っているわたしでした!あはは〜

またね。

感謝するのはもう止めようと思ったこと

2018.11.20 16:46|思ったこと・気づいたこと
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以前のわたしは
どんなに厳しい状況になったり
痛みがある経験をしたとしても

「まぁ辛かったけど
 あーでこーで、
 アレに気づけたし
 ありがたかった。
 感謝してる。」

というふうな感じで
感謝な出来事として
捉えていました。


それが。


この間、ふと気づいたんだけど
ここしばらくは
感謝をしてないんですよ。

「そんなことがあった」→「終わり」

という感じで即終わってる。


「あら、わたし感謝してないんだ、、」
とあれこれ思いを廻らせてたら
はっと思ったのが、


感謝をしているから
いつまで経っても
辛い厳しい状況がある


ということ。


だってね、

わたしは
ありがたいと思って
感謝してるもの。

そりゃー、そういう状況を
自分で見出すな〜〜

と気がつきました。


ー ・ ー ・ ー ・ ー

人にも寄るだろうけど、
「ありがたいこと」って
嬉しいじゃない?
手に入るのなら欲しいと思わない?
(わたしは思うのよ、、)

だから、

どんな状況であれ
「ありがたいこと」なら
それを無自覚でも手に入れようと
するんだな〜と思いました。

以前のわたしは
超ポジティブだったから、
いかなる状況でも「良かった事」を
見つけるのは得意だったのね。
意識しないですぐ見つけられたので
もうほんと無自覚でしてた。
そして感謝してた。


あの、
感謝するのがダメと
言いたいわけじゃないです。
「厳しい状況の中でも
 光を見出すことが出来る」
という練習が必要な時もあるけど
それが要らない時もある、と思うのね。

じゃないと、
いつまで経っても
光を見たいがために
厳しい状況を迎えようとしてしまう、、
、、以前のわたしのように。


今回はそんなお話でした。

またね。



我慢する人。そして、不満を溜めない人のピュアな思い。

2018.11.09 20:26|思ったこと・気づいたこと
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わたしのワークショップで
ご一緒してくださった方へ(ご希望であれば)
月に一度お便りメールをお送りしてます。

主にはわたしが経験したことからの話で
先月分は、ボブとの喧嘩(言い合い)の
話から我慢についても触れていました。


わたしは無自覚で我慢する癖があります。

小さい頃から

・女は我慢するもの
・夫を立てる
・目上を立てる
・忍耐は美徳
・和を尊ぶ
・良い子(物分り/聞き分けが良い)であることが素晴らしい

という教えをずっと受け、
それが今でも自分のどこかにあるんですね。

そして、非日常的なことなどで
気を取られてしまう場合は特に
「上記の教え」が無自覚でオン状態になり
気がつかないまま他を優先し
自分を抑圧させて
我慢してしまうことがあります。

先月のことで例をあげると、
日本へ行く準備の最中だったので
自分のリズムを感じることより
「日本へ行く準備」そして
それに関することを無自覚で優先していました。

 例えば

「準備をしなければ」と思っているところへ
→夫から「早くしろ」と言われると
→→準備を間に合わせるために早くするのは正論だと
  無自覚で思い
  無自覚で従う


ということをしていました。
ええ、気がつかないでしてたんですよ!

で、気がつかないとはいえ、
自分ではなく、他を優先しているので
不満が溜まっていくという。
(無自覚での我慢)

これはもう、自分で気がつくしかないのよね。
その場その場で、
自分で自分の声が聞けるようになるしかない。

ある意味、筋トレみたいなものだと思う。

最初は、自分の声をその場で聞く筋力が弱いから
できないのは当たり前。
何度も後になって「また流されてた、、」と
思うけど、これを繰り返して筋力つけていく。

聞けてなくてもいいんですよ。
というか、それが当たり前というか。
だってトレーニング中なんだもの。
ただ、筋トレを繰り返していくだけ。



…おっと、話が逸れてきたので戻します。

こんな感じで、
「無自覚で不満を溜めてた」という
お便りを送信したら

不満を溜めないタイプの方から
「相手をもっと推し量るべきなのかな」
というフィードバックを頂戴しました。

そうよね〜〜。

不満を溜めないタイプでお優しい方だと
無自覚で我慢する人に対して
もっと不満を言いやすい環境を作るべき?
とか思っちゃうよね。

でもね、わたしが思うのは、
もし「本気で心底」何かを思ったのなら
そうしたらいいと思う。
でも、そうでないのなら。
相手に合わせて無理に変わる必要ないです。
自分じゃなくなるから。
これほどズレたことはないと思う。

でね、わたしのような無自覚で我慢人間は
不満を溜めない人のありのままの存在が
めちゃありがたいんですよ。

「あ、こうしたらいいのか〜」とか
「そんなはっきり言ってもいいのか」と
お手本になってるから。



でね、

*ここからが今日の本題*



無自覚で我慢したわたしにとって
フィードバックで頂いた
「不満を溜めない方の思い」に
素晴らしいと暖かくなった部分がありました。

ご承諾を頂いたので、ご紹介します。


《ここから》

私の場合、相手が身近な人であればあるほど、結構思ったことをすぐに言っているなーと。

私の場合、喧嘩になっても、言いたいことをいうのは、その相手に対して私自身がいつも直球勝負&正直でいたい、と思っている部分と
何を言っても許してくれるだろうと言う、身近な相手ゆえの甘え、その両方があるように思います。

《ここまで》



「何を言っても許してくれるだろう」という思いは
相手と自分への深い信頼と愛から、なんですね。

そして、相手に対して自分自身が
いつも直球勝負&正直でいたい、
というのも、相手への愛と想いです。

いや〜、これを読んで、正直、
わたしは相手も自分もそこまで深く
信頼してなかったかも…と思いました。
というか、
「何を言っても許されるだろう」なんて
自分に対しても完全に思えてないわ〜

自分で自分を許せない、みたいな、、ね。

そんなん、
自分で自分を完全に信頼していないと
他を無自覚で優先させてしまいますやん。

ええ、、もう、、自信の問題でもあるで、
わたしよ。。。


もうね、不満を溜めない方の
ピュアな想いに感心して暖かくなりつつ
同時に、自分はどうなんだ?と
むむーーと唸ってしまいました。


さぁ、自信の筋トレもだーー!


またね。




自分のモノサシ。相手のモノサシ。

2018.11.06 16:59|思ったこと・気づいたこと
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Hello! 皆さまいかがお過ごしですか。
わたしは大阪に着きました〜!

9月の台風の被害は大きかったと
聞いてはいたのですが、
街路樹が根っこから倒れた状態の
根の部分だけがまだ放置されているのを
実際に目にすると、台風の威力を
想像だけでなく身体で感じました。

そして今はイタリアの方で
被害をもたらしていますが
おかげさまでうちはみな大丈夫です。
いつもありがとう〜☆


話は変わるのですが。

叔母の体調がここ数年よくなくて、
先月に入ってから急に悪くなり
わたしも日本に着いてから
会いに行くことができました。

言葉では会話が出来なかったのですが
話しかけると返事をするかのように
声で反応してくれて、
エネルギー的に感じてみると、
叔母はコミュニケーションしてくれていると
クリアに感じました。
肉体を使ってはっきりと
表現できないだけなんだと思った。

なんかね、
しょっちゅう書いてるような
気もするけど、人間って
肉体だけの生き物じゃないと
こういう時にものすごく
感じさせてもらえます。


叔母は、ある宗教の経験な信者でした。
「死んだら私はもう存在しないから
 祈らないで欲しい。
 (祈りの対象にはしないで欲しい)」
「お葬式はしないで欲しい」
というような、普段の日本で行われるような
死後の式とは違うことを望んでいました。

なので、彼女の宗教での追悼式が行われ
参列させて頂きました。

わたしにとってはこちらの宗教での
参列は初めてで、すべてが
新しい経験だったわけですが、
追悼式でお話をされる中で
伝道活動(宗教への勧誘)を
なさるのを聞いて、正直なところ
「ここで勧誘かーー!」と
思ってしまいました。

でもね。

叔母を思うと、
これは叔母の真意だと感じるんですよ。

話の中にもあったように
叔母の意図であり望みだった、と。


叔母は本当に経験な信者で
仲間の方達にも愛されていたようで、
式の間中、あちらこちらで
泣いているのが聞こえていたし、
式が終わってから、わたしの所まで
「ご親族の方ですか?」と
わざわざご挨拶に来てくださる方も
いらっしゃいました。

そして、この時にも
叔母とのエピソードの合間に
宗教への勧誘がありました。

正直に書くと、
何度も勧誘にあって
しつこいなと思ってしまったのですが、
でもやっぱり、叔母を思うと
この方も言ってるように、
それが「叔母が望んでいたこと」であり
「叔母の望みを伝えてくれている」だけ
なんですよ。

わたしが「勧誘されている」と
思ってるだけ。


この感覚の違いは、わたしと彼女達とでは
物の見方・考え方が違うから、なんですね。


わたしは「わたしのモノサシ(定規)」があり
彼女達は「彼女達それぞれのモノサシ」がある。

わたしのモノサシを当てて、彼女達を
見ようとするから、ズレが出てしまう。

そして、彼女達も彼女のモノサシを
わたしに当てようとするから、無理がある。

人それぞれのモノサシは違うので
もうしょうがないと思う。
そして、それが当たり前だとも思います。

わたしにはわたしの物の見方考え方があり
彼女達にはそれぞれの物の見方考え方がある。
きっとお互い理解出来ないようなことも
あるだろうけど、そこは「そうなんだ」と
そのままそう在ることを認識するだけで
いいと思いました。

そこを無理やり、自分のモノサシを
相手に当てようとするから
理解不能やいざこざが出てくるのだと
思います。


相手が「そう在る」ことを
認めるだけでいい。

そして

自分は「こう在る」だけ。


すると、いろんなモノサシがある中で
まぁるい日々になるのでは…
と思いました。

みんなが居心地が良いといいね。


またね。




習慣の威力の凄さ(いろんな意味で)

2018.10.05 00:23|思ったこと・気づいたこと
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ちょこちょこ家のメンテを
していたのですが、
ここしばらく本気でやってました。

窓の木枠に養生ペイントを塗るため
サンドペーパーをかけたりとか。
この作業、粉がかなり出るんですよ、、

粉で室内の床がザラザラするので、
週2・3回程度だったモップがけが
毎日するのようになり。

で、サンドペーパーの作業が
終わってしばらく経ったのに、
家の中が…粉?いや、埃っぽい?
たまに水回りに濡れた埃の跡がある。
それも、ボブのサンダル跡ばかり。

なんや変やな〜〜と思いつつ、
毎日モップがけしてたのですが!
分かったよ、、、


「キッチン・マットを敷かなくなった」のと
「ボブが室内サンダルを変えた
 (埃がくっつきやすい材質サンダルになった)」


…からでした!

そういえば、
ボブがサンダルを買い換えてから
キッチンマットの汚れは激しかった、、
(サンダル替えてからそんなに経ってなかったし、
洗えば綺麗になってたので気に留めてなかったよ!)


謎が解けて嬉しいやら驚くやら。
そして、同時にあっと気づいたのが、


モップ掛けがラクになってること。


気がつかないまま習慣になっていて、
なんの気負いも考えもないまま
ささっと短時間で出来るようになってる。

いや〜〜、習慣って凄いと思った。
威力が強烈。

こんなんだと、習慣になってることを
辞めるのが難しいのも分かるかも…
って思った!

例えば

「タバコを止めたい」
「寝る前に甘い物を食べるのをやめたい」
「延々とスマホ見るのを止めたい」

ということを時々聞くんだけど、
これねぇ、、、
もし、ただ「やめよう」としていたのなら
難しいのもしょうがないかな、と。

というのも、人間って
「なにかをしない」ようには
出来ない生き物と感じるから。
常になにかをしてる生き物じゃない?

だから、ただ止めようとするだけでなく
何か「他のことと置き換える」。

寝る前の甘い物、だと、
カップ一杯の暖かい飲み物、とか。
それも、飲むときは五感を
フル活動させてしっかり楽しんで。

それと、コツがもう一つ。

日常的になっている行動を
いくつか変化させる。

いつも同じ道を通っているのなら、
曲がる角を変えてみるとか。
いつも同じ電車/車両に乗っているなら
違うのに乗ってみるとか。
入浴するとき、いつもとは違う
順番で洗ってみるとか。

なんでもいいのです。
変えてみる。

そう、

日常のリズムを壊す、んですね。

すると、習慣も壊しやすくなるから。

そして、新しいリズムを作っていく。


何か新しいことを習慣にしたい場合も
これと同じです。
日常生活での行動パターンを崩し、
変化をもたらせて、
新しい習慣を入れる。
そうすると「新しいリズム」が
作りやすくなります。


どうかしら?!
何かの参考になれば幸いです。


またね。


天使の羽を見て天使を見ず…になってないかな。

2018.10.02 03:53|思ったこと・気づいたこと
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結構前のことなので
いつどこで聞いた(読んだのかも)か
もう忘れてしまったのですが

「それは天からのメッセージ。
 こうこうで、ああしなさい…云々…」

というのを聞いた(読んだ)時
自分の内にザラッとした感覚が
出ました。なんかしっくりこない。

でも、同時に、
なんでこんな感覚が出たんだ?と
疑問も感じたんですね。
わたしもそういうの信じてたから。

例えば、
デジタル時計で偶然ぞろ目を見た時とか。
歩いてたら道端に鳥の羽を見つけたとか。
突然ふわりと蝶が飛んできたとか。

そういう時って(天使なり何なりの)
存在が通ったのかなと嬉しくなるのです。
(あなたもこういうのないかしら?!)

だから、自分の反応に驚きつつも
このザラッと感を観察してみたのですが
分からなくてねぇぇ

分からない時は、
放っておくのがいいので
空中フックに引っ掛けるように
(*イメージでね)放置してました。


そしたら!!!
ようやく分かった!


先日、ベランダに出ようと扉を開けると
ふわふわの羽毛が落ちていて
「天使が来てたんだ」と思ったんですね。

そんな感じで羽毛を見てたら
何だか歪みに入ったような
不思議な感覚になり、そしてハッとした。
これかーーって。


冒頭の言葉になにか引っかかったのは
「天からのメッセージ」としておきながら
「どうこうしろ」という指示としてしか
捉えていないとわたしは感じたようでした。

メッセージを出したそもそもの存在、
「天(なり何なりの存在)」を
見過ごしてるのでは…?と。

もし見過ごしているのなら、
うわべしか見てないなーと思います。

もちろん、迷ってる時などに
何かのサインを見て、
それはこうしろということか、などと
アドバイス的ヘルプになる場合も
あるとは思うのですが、
そもそものところ、
そのヘルプの存在そのものを
見過ごして(忘れて)やしませんか、と
思うのです。

そして、もっと突き詰めると
「その存在」は何なんですか?と。

ここに気づくとね、
いろんな迷いや悩みが
ふわっととけます。


*** ***


…ということで。

やってみたい "かも" と
思っていたことが、
今回の羽毛の一連で
「やってみたい」になりました。


物事って、平面じゃないと思うのね。
立体的なのだと思う。
だから「見ている」つもりでも
例えば、立体の向こう側は見えておらず
一点しか見ていないときがある。

(また再開しましたらご連絡します)
なので、「見る」こと、
そこから気づくことを
展開していくワークショップを
してみたいと思っています。

詩や物語を使って
立体的に見る体験をしたり
他の人の話(視点・見方)も聞いたりして
「見る」「気づく」に展開があればと
思っています。

興味を持ってくださる方、
いらっしゃるかしら?!


「ワークショップ(WS)」なので
体験参加型ですが、
正解を探すWSじゃないです。
正しい(と思う)ことをするWSじゃない。

何をするにしても
どんな発言であっても
間違いなんてないから。
(これという絶対的正解はないもの!)

安心してご参加くださいね。
あと、無理強いもしませんから!

遊びに行くようにお気楽に〜


「見る、知る、気づく」

ワークショップに
興味を持ってくださったら
ご連絡いただけると嬉しいです。
もしどなたかいらっしゃるのなら
しっかりと形にして開催します。

tomoko.it.IH@gmail.com

どうなるかな?!
ご一緒出来たらとても嬉しいです〜!


またね


 

意識はどこに?(ご遺体/睡眠中/上の空状態では??)

2018.08.23 23:11|思ったこと・気づいたこと
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ボブより先に目が覚めると
睡眠中の彼を観察する時があります。
その時、いつも思うのが

「意識はどこにあるんだろう?」

ということ。

肉体は「ここ」にあるけど、
意識は「ここ」にない感じ…
…だけど「ここ」にもあるような。

うーん、例えで表現すると、
意識はどこかを散歩中だけど
散歩紐で繋がっているような感じ?

で、同じ睡眠でも
「熟睡」と「うたた寝」では
観察してると、違う感じがある。

「熟睡」だと遠い所に行ってる感じ。
「うたた寝」は、ご近所周辺。


じゃあ、そもそものところで
「意識ってなに??」と思ったんですね。


睡眠中は、身体が寝ているから
意識は身体から出て散歩する…
としたとしても。

目が覚めてもボーッとしてるときは
身体は起きてるじゃないですか。
で、ボーッとしてる人を観察すると
意識は「ここ」にないと感じる。
どこかに行っちゃってる。


そして、

寝てもいない
起きてもいない状態、
死んだ場合の意識は??


ご遺体を拝見すると、
そこにあるのは「肉(体)だけ」
という印象をわたしは受けます。

どれだけ御遺体を眺めても
その肉体と意識は切り離されたよう。

「精気」という言葉がありますが、
上手く表現しているな〜と感心します。
遺体には精気が無く、
エネルギーが流れていない感じ。


じゃあ、身体での「肉」の部分で
エネルギーが流せない状態になると
意識は完全に切り離されるのかな?

あれ?意識って魂?
魂ってなんだろう、、、
意識って魂の一部??


…ということを思っていると、

 「人間」という生き物は
 肉体だけで構成されている物でなく
 見えないいろんなことからも
 構成されているんだな〜

ということを感じます。

人間ってすごいなーー



闇のなかで 光をみるには,

2018.08.06 22:45|思ったこと・気づいたこと
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昨日、映画を観てたら
「本当の暗闇を知ってるか?
 今は街中ではいつも灯があるから
 想像がつかないかもしれないね」と
主人公が幼い頃にたいまつを持って
洞窟の奥まで入ったものの
たいまつの火が消えてしまう…
というシーンがありました。

それを観たら
自分のどこかがハッとして、
目は映画の画面を追ってるけど
同時に他のことを観ているようで
ああ、これか!と気が付いた。

闇の中で光とかって、鍵があるかも!


= = = = = = = = =


大変な時とか辛い時とかさ、

「闇の中で光を見出してください」

って、言われたことない?
(かく言うわたしも書いたことあるような)

ほんで、そんなこと聞いてもさ、

「んなこと分かってるわいっっ!
 見えないんだって!!」

とか思ったり…?!あはは〜〜

いや、ほんまに。
見えない時は、見えないもんね。


でね、思ったんですよ。


闇のなかで光をみるには、
どうしたらいいんだろう?って。


どうしたらいいと思う?



わたしが思ったのは、まずは

「闇に目を慣らせる」。

というのもね、
明るいところから
暗いところへ入ると、
目が慣れてないから見えづらい。

それと同じかも、と。


闇を見る。とことん見る。


え?怖い?

それね「未知への恐れ」かもね。
何があるか分からないから怖い。
他は「漠然とした恐れ」。
なんやよう分からんけど怖いとか。
「早合点・勘違いの恐れ」もある。
ほら、夜道をビクビクしながら歩き
道に細長い動く(と思った)の見て
蛇と思ってギャーと叫んだけど
ちゃんと見たら紐だったとか、ね。

「未知/漠然/勘違いの恐れ」
だからこそ見る。見ると正体を知るから。
知ってしまえば、なぁんだってなるよ。


ん?まだ怖い?
自分の泥臭さを見るのが怖い?

あはは〜〜!大丈夫。
みんな同じくらい泥臭いから。

人間、誰しも泥臭さを持ってます。
だから、人間なんだと思う。

泥のない、光だけの人っていないと思う。

だから安心して。自分を見てね。



そして、
闇を見てるのに
それでもまだ光が見えない…のなら、

「闇が足りない=

 とことん暗闇だけを見る」。


怖いからって、
中途半端に気休めの灯りを入れると
目がそれに慣れちゃって
本当の「光」が見えないです。

目や気をチラチラとそらせず、
ちゃんと自分を見てね。



そして、ここまできても、
まだ「光が見えない」というのなら。


そろそろ(自分の状態を)諦めましょう。


あなたはすでに光の中にいるのだから!!


煌々と輝く光の中で
光を探そうったって
見つかるわけありゃしませんがな!


闇って自分の思い込みよ。



さぁ、ゆったりと座って呼吸して。
じっくりと見てみてくださいね。


またね。



「罪」とは、悪行のことじゃない、のかも。

2018.08.03 01:58|思ったこと・気づいたこと
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先日、書物を読んでいたら
突然なにかと何かが繋がったようで
ハッとしました。

「罪」というのは
悪行のことを指しているのでは無い
かもしれない、と。


= = = = = = =


イタリア中部の街、アッシジには
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂があり
その中に「ポルツィウンコラ」と呼ばれる
小さな礼拝堂があります。

ポルツィウンコラ礼拝堂は、
聖フランチェスコが仲間と共に修復し
祈りを捧げていた場所で、
1216年7月のある夜に
聖フランチェスコが
ビジョンを得た場所でもあります。

そのビジョンとは、
イエスが聖母と天使達を伴って
現れたもので、
その際に聖フランチェスコは
「ポルツィウンコラ礼拝堂を訪れ
 祈った者の完全なる罪の赦し」を
乞い、聖母の執り成しもあって
人生で犯した罪の完全なる免除が叶った(*)のです。
(*叶ったのですが。
  教会側の手入れが入り、
  教会にとっては有限の罰の免除となりました)




…という話がふと記憶に上がり、
今になってやっと気がついたんですよ。

わたしがポルツィウンコラを訪れたのは
もう何年も前になるのですが、
そんなに参拝者がいない時で、
少しの間、中に入って座ることが出来ました。
もうなんというか、暖かくて柔らかく
同時に、厳かで研ぎ澄まされていて。
自分という存在が拡張するかのようでいて
その一方で薄く小さくなっているようでした。

あんな素晴らしいポルツィウンコラ礼拝堂を
訪れて祈り、真理に触れることが出来たのなら
もう二度と迷いに入り込まないのだろう、と。

だから「人生での完全なる罪の免除」が
叶うんだ…と思ったんですね。


= = = = = = =


「罪」といえば、悪い行いのことと
一般的には認識されていると思うのですが
罪を「悪行」と理解して聖典などを読むと
観えない部分・たどり着けない域が
あるように感じます。


ということで。わたしの内では、

「罪」というのは
「真理で無い状態」のことでもある

と落ち着きました。
そこからいろんな言葉をもう一度
思い返してみると、いろんなことが
しっくりきています。


さて、ところで。
罪とは真理の状態ではないこと
と前提すると
「真理」とはなにか?となるのですが。


何だろうね?!

何だと思いますか。


わたしの思うとこですが、
真理からズレると
苦しみがある状態だと感じます。


苦しみがある状態とは、例えば

 自分という存在は
 この肉体だけ(と思っている意識状態)

というような、
分離でいる状態のことでもあるかなぁと。


分離した状態だから、
他人が羨ましくなったり
他人の方が優れていると思ったり
しちゃうんですね。
そこから自尊心が欠けたりして
補うために虚栄したり
何かを追い求めたりしたり。
満たされなくて苦しくなる。。。


じゃあ

「分離の状態じゃない自分」とは?
「本当のわたし」とは?

どんな状態だと思う/感じますか?
 (ゆったりと座って、呼吸し、
  目線を落として感じてみてね)




どうだったかしら?!


わたしが今ここで、
わたしが感じることを言葉で書くと
ありきたりの表現になると思うので
ご自身それぞれで想像して頂けたら、
と思います。

ご自身の言葉、感覚が
一番しっくりきますので。



「わたし」って…?!!!



またね。


「人生に意味は無い」への私の反応

2018.07.31 00:17|思ったこと・気づいたこと
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この間、
「人生に意味は無い」
という一文を読んだ時の
自分の反応が興味深かったです。


あなたは
「人生に意味が有る」と思いますか?
「いやいや、無いよ」と思う?


わたしは、むかーしは
意味が有るとずっと思ってました。
それも強く強く思ってたのです。
でも、最近は考えたことなかった。

そんな先日、突然
「人生に意味は無い」という一文に
出くわしたのです。
その時のわたしの反応と言ったら!
大混乱で面白かったです。


まず、意識の方は、
一瞬の間にあちらこちらと移動。
出くわした瞬間の反応は、
以前の名残りどおり
「えっっ?!意味有るんじゃ…」と
なったものの、瞬時に、
言葉の意図することを理解し
「あ、なるほどね」と分かり
落ち着いていたのですが。

身体の反応は違ったのです。

出くわした瞬間、
肉体の内の底から火山のマグマのように
何かが強烈に湧き上がってくる感覚があり
全身に広がって、胸と頭がカーッとなり
それが続くのです。

ここで面白かったのが
「頭(肉体)がカーッとなって」いても
頭(意識)では
「あ、なるほど、そうか」と
完全に理解して落ち着いてるんですよ!

いやもう、、
肉体は悶えてるのに
意識は落ち着いて冷静であり、
しかも、そんなちぐはぐさを
どこからか客観的に観ている自分がいて
その全てが面白くてしょうがなかったです。


でね、この時に思ったのが。

身体には、
肉の部分…細胞的に情報(過去)が
記憶されている場合があり、
意識とは関係なく、
肉体からくる反応があるんじゃないかな、と。

だから

意識で掴んでいることとは別に
身体が違う反応を続けることもある。
(今回のわたしみたいに)

なので、意識とは違う肉体の反応、
例えば
 頭がカーッとなる
 足がすくむ
 腰がひける
などの状態になったのなら、
(客観を意識するなどして)
まずは、落ち着く。

肉体の反応に流されてしまわない。

そして

意識はどういう状態なのか
それを観察すると肉体的にも
落ち着いてくると思います。


内観をずっと続けている方で
「もう手放したと思ったのに
 ある場面になるとムカムカします」
などというようなことを聞く場合が
あるのですが、もしかしたら
肉体の記憶(肉体的な反応)かも
しれませんね。

肉体の記憶といえば。
こんな記事があります。

「記憶を移植」亜研究者らがアメフラシの遺伝子で成功
https://www.bbc.com/japanese/44119676
(*注意!!ナメクジ的な写真がトップにあるので、
 苦手な方はページを開く際にご注意を)

この記事はいろんな可能性を感じ
とても面白かったです。
記憶はどこに貯蔵されているのか。
そして、わたしたちの反応は
どこからくるのか。
興味が尽きないところです。


さて。

最後になったのですが
「人生に意味は無い」という言葉。

どうなんだろうね。

人生に意味は有る?無い?どう思う?


わたしが思ったのは、

「人生への意味付けは
 どういうことなんだろう?」

そして

「人生への意味の有る・無しを
 決めているのは “誰” なんだろう?」

ということです。


例えば、
人生に意味が有るのは、
意味をつけているからであり、
じゃあ、意味をつけるのを止めたら
「人生に意味は無い」ですね。
(*逆もまた然りですね)

そして、意味をつけているのは誰?
私?
じゃあ私とはどういう存在なんだろう。


…ということを突き詰めると
「人生に意味は無い」の言葉の
真相に触れられると思います。


最近ね、日常生活でふと
「夢の中にいるようだ」と感じることが
ありました。

で、もしかしたら本当にそうかも、と。

わたしたちは、不思議の国に訪問中の
“アリス”なのかもしれませんよ〜



…なぁんてね。あはは〜!ホラーかしら?!

どうぞ愉快な真夏の夜の夢を☆

またね。

プロフィール

ともこ

Author:ともこ
みなさま、
ありがとうございました。
また2018年秋に
お会いできますことを
楽しみにしています〜!

***************
日本とイタリアを行ったり来たり。
筋肉反射を使ってセッションするインテグレート・ヒーリング(Integrated Healing)をしています。
お問い合わせなど、お気軽に、ここの下にある【メールフォーム】からか、
tomoko.it.IH@gmail.comまで、メールをお送りください。

アメブロにミラーブログ置きました。
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